絶対運命黙示録

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もういないひとをおもい、自分を見つめなおす 仲山遥那「子袋の海をうつ」


 死者の声はもう届かない。残されたわたしたちは彼ら/彼女らの生きたあかしをなんとか探し、そのひとたちの声として受け取っている。

 


 仲山遥那による「子袋の海をうつ」は、優生保護法によってこどもを産めなくなってしまった今は亡き大叔母である明日子と主人公であり自身に生殖機能が備わっているうえにそれが法によって「保護」されている「私」が対照的に語られる。

 


 産めなかった大叔母と産みたくない「私」。大叔母は故人であるため「私」に対して語るすべを持たない。だが、否が応にも大叔母は「私」の前に浮かび上がってくる。

 


 この作品は細部にまでこだわり徹底的な調査がもとになっている。それはほんのちょっとした描写にもあらわれる。

 


 たとえばこんなシーンだ。

「明日子おばさんの背中には無数の黒い斑点模様があった。幼い頃、お風呂に入れてもらったときに見てぎょっとした記憶がある。この黒い斑点は少ないが祖父母の背中にもあった。彼らは一様に斑点を嫌っていた。元々は膿のたまる出来物で、互いに潰し合っていたらしい。ぶちゅりと飛び出た膿の臭さを祖母は今も鮮明に覚えているという。はじめはトビヒやニキビだと思っていたものが、実は海の毒による健康被害だった。」

「黒い斑点」という描写ひとつにも公害による被害の大きさが物語られ、その悲惨さを伝える。

 


 「私」はそういう歴史を認識したうえで自己の身体についておもいをめぐらせる。

 


 この作品の中盤で「私」は大叔母に語りかける。

「おばさんは子どもを産めない体にされてしまったのに、私は子宮のない体を望んでしまう。明日子おばさんはその事で死んでしまいたいとも思うのに、私は子どもを産める体だから死んでしまいたいと思う。おばさんは私のこの話をしたら怒るだろうか。口許に皺を寄せて悲しい顔をするだろうか。それとも、一緒に泣いてくれるだろうか。」

この問いへの返答は、ない。これからも、ずっと。女性が女性への連帯を希求しても、相手がもういない存在である限り、それは一方的なものにしかならない。だが、どうしても求めてしまう。もう重ならなくなった人生のどこかに答えを探してしまう。

 


 一方でこの作品は男性による女性への語りの一切を否定する。マジョリティ特権を持つものからのマイノリティへの一方的で配慮に欠けた語りはマジョリティ側の傲慢であるばかりではなくときに暴力の再生産であるからだ。

 


 男性である芳人はなにを思って「私」をまなざし、撮ったのであろうか。彼からのまなざしの描写はない。被写体となる「私」が望んだこととはいえ、そこには彼のまなざしが宿っている。芳人からみた「私」はどううつっていたのだろうか。「私」が語り手である以上芳人のまなざしがどのようなものだったのか、読み手にはわからない。

 


 被写体がなにを望もうと写真にうつるのはそれを撮った人間によるまなざしである。男性から女性への「まなざし」はこの作品においてどうだったのだろうか。

 


 しかし、情景描写の巧みさによってこの作品は立体感を持ってわたしたちの前にあらわれる。まるでわたしたちもその場に存在しているかのように。物語のなかに引き込まれつづける、手探りで連帯の可能性を求めてしまう、そんな作品だった。

 

https://sites.google.com/site/nkhr0401/novel/%25E5%25AD%2590%25E8%25A2%258B%25E3%2581%25AE%25E6%25B5%25B7%25E3%2582%2592%25E3%2581%2586%25E3%2581%25A4