2022年1〜3月に放送されたアニメ『平家物語』はひじょうにクィアな物語である。
というのも、主人公である少女びわは異性装をしており、また未来の見える右目を持っている。さらに、男性中心社会のなかで駒としての役割しか与えられてこなかった女性たちのシスターフッドが描かれている(註1)。
松井美穂は義眼や窃視、斜視を「正常な」視覚から逸脱したものと位置づけ、Carson McCullersによるとそれらは「クィアな眼」として表現されているという。(註2)。
見るもの/見られるもの、という主体/客体は、不均衡なものであり、同時に男性/女性の性役割として機能してきたことはフェミニズムのなかでもメジャーな言説だろう。
では、異性装をし、未来の(/故人の)見える眼を持つびわが語り手となる『平家物語』はどう捉えればいいのだろうか。
当初、びわは右目で未来を見ることができ、左目は「正常な」眼であった。しかし、第4話以降、重盛の死によってその眼を受け継いだことで左目で故人を見ることができるようになり、びわの眼は完全に「正常」性を失ったことになる。いわば両目とも「クィアな眼」を獲得したといえよう。『平家物語』は「クィアな眼」によって語られることになるのである。
そして、びわの異性装である。びわはびわの父親によって少年の格好をさせられており、父親の死後もそれをつづけていることからこれには自発性も含まれていると考えられる。
同じく「クィアな眼」を持ちながらも語り手にはなりえなかった重盛は異性装をしない男性である。そうするとびわの異性装も大きな役割を持っているのではないだろうか。
異性装をしていることも含め、「クィア」性を持つ語り手としてのびわは少女として眼差される存在でもある(註3)。主体であると同時に客体でもあり、「少女」であると同時に「少年」でもある。その両義性がゆえに語り手としてのびわは規範を攪乱する存在である。
最終話である第11話でびわの両目は〈琵琶法師〉の眼に変わる。それはこの物語がびわの眼を通してのものではなくなり、普遍的な、多くの人に語られる物語となったことを示すのであろう。
アニメ『平家物語』における「クィアな眼」とは既存の物語を一時転覆させ、われわれ(視聴者)にその見方を問い直させるものである。
註
1.たとえば、第2話の祇王と仏御前の視線の交差がそうであろう。祇王と仏御前は互いに見つめ合い、ほほえみを交わすことで暗黙のうちに意志を伝え合った。
2.松井美穂、2005年、37頁。
3.たとえば、第2話では清盛によって、第4話では資盛によって彼らの相手をさせられそうになる。
参考文献
松井美穂「視線,異装,ジェンダー越境 : The Ballad of the Sad Cafeにおける「クィアな眼」」アメリカ文学研究 41(0)、37-52頁、2005年