絶対運命黙示録

だいたいツイッターにいます@wenoim

好きなものについてただ好きということができない

 

 タイトルの通りである。私は好きなものについて、ただ、好き、ということができない。何かしらの批判すべき点を探してしまう。まるごと愛するなんてことができないのだ。

 

 たとえば、漫画『かげきしょうじょ!!』である。私はこの漫画がとにかく好きで、何度も何度も読み返しては泣いてきた。しかし、そこに潜む資本主義によって夢への扉が閉ざされることや資本主義で結びつくシスターフッドのあり方には違和感を覚え、批判してきた。さらに、この作品のなかに「私」が存在できないこと、「私」は徹底的に傍観者になることしかできないことには絶望してきた。

 もともと宝塚が好きで、何度も何度も入りたいと親に懇願し手にした願書。高校に入ってから門を叩いた受験スクール。そこに私の居場所はなかった。低すぎる身長。伸びない声。かたい体。どうあがいても宝塚に入ることはできなかった。『かげきしょうじょ!!』にはそんな人間は描かれない。私は存在できない。おしまい。

 

 次に宝塚市周辺の事情である。兵庫県宝塚市は阪急の誘致により「歌劇のまち」として栄えてきた。そこはまさに夢の世界を体現しており、美しい景観で有名である。私もその周辺にあるキャンパスがきれいなことで有名な大学を出ており、4年間をその中で暮らした。

 だが、そこには存在することを極端に忌避され、疎まれている人たちがいる。ホームレスである。どこのまちでもそうなのだろうが、阪急沿線では特に根強い差別がある。西宮北口の駅の改札を出て、アクタ西宮に行くまでの通路には『ビッグイシュー』を販売している人がいる。しかし誰も彼を見ようとしない。視覚に収めようとしないのだ。

 

 そういうまちで上演されている宝塚歌劇、ということを考えるといかにグロテスクな光景かわかるだろう。宝塚の舞台にはときどきホームレスが登場する。しかしそうして演じられる彼らが現実に即していたことなど一度もない。安全圏から描かれてきたファンタジーなホームレスたち。

 

 今東急シアターオーブで上演中のミュージカル『RENT』はジェントリフィケーションに反対する若者たちが主人公である。だが、その東急シアターオーブは宮下パークのすぐそばである。いったい『RENT』を観劇する人の何割がかつてそこでおこなわれた大規模なジェントリフィケーションについて考えるだろうか。

 

 好きなものについて手放しで絶賛できることはきっとすてきなことなのだろう。私にはできないけれど。