絶対運命黙示録

だいたいツイッターにいます@wenoim

書き続けることもひとつの才能

 

 

 

 私は今までに商業誌というものに自分の書いたものが載ったことがない。よくて地区の文集や大学院の発行している雑誌、ともだちの同人誌。ZINEとか同人誌はじぶんでも出しているけれど。

 


 年に何度かエッセイの賞に応募するが箸にも棒にも引っかからない。しかしそれでも書き続けている。

 


 なぜ書き続けられているのかはわからない。だが、青山七恵の『すみれ』にはそのひとつの解があるように感じている。『すみれ』で主人公藍子は最後にこう述懐する。

 

 

 

レミちゃん、わたし、今、書いてるのよ。  わたしの声はどこにも届かず、ただ海の遠くに降って、なくなる。レミちゃん、わたしね、いちばん大事な言葉に何枚もいらない飾りの言葉をかぶせて、包んで、本にして、知らないだれかに投げつけてるの。そのうちたった一人でもいい、だれか一人が最後の大事なひと言にたどりついて、それを何かの助けにしてくれたなら、今まで自分が手を放してしまっただれかが、別のだれかにきっと救われるんだって、ほとんど祈るみたいに、無理やり信じて、書いてるの。レミちゃん、こういうこと、どう思う? レミちゃんだったら、笑う? 怒る? やっぱり藍子は考えなしだって、がっかりする……?

 

 

 

 藍子は私だ、と思ったというのは別の記事でも書いた。

 


https://ayakuram30.hatenablog.com/entry/2021/07/07/164031

 


 ありがたいことに私はときどきZINEの感想をいただくことがある。そうしたとき、私の本当に言いたかったただひとつのことに誰かが辿り着いてくれたのだと嬉しくなる。だから、書く。だれでもいい、私の書きたいことを汲み取ってくれるひとがいるかぎり私は書き続けるし、そうでなくても書くのだと思う。執念のような祈りを持って。

 


 かなしいかな、世の中には途中でペンを折ってしまうひともいるらしい。私も将来そうなるかもしれない。書き続けるということは無限に湧いてくる泉を享受することではないのだ。

 


 書き続けることもひとつの才能である。誇りを持て。