ツイッターは反知性主義的である。140字の制限のなかでいかに「それらしい」ことが言えるかの勝負の場と化している。しかも「議論」ができるなんてかんがえる輩もいる。
議論というものはほんらい緻密に調査検討がなされたうえで成り立つものだ。140字の連なり程度でどうにかできるものなんかじゃない。リツイート、引用リツイート、ハッシュタグ、ブロック、ミュート、エゴサ、パブサ。それらの機能は便利だ。私も使うことがある。それでもそれらは議論や持論の補強に使ってはならないし使えるはずもない。
ツイッターでの議論なんて不可能だ。
でも私は知っている。140字にも満たないことばを搾り出して世界に放たないと自己を取り戻せないひとがいることを。ぎりぎりのなかでやっと数文字のことばを出すのだということを。世界との数少ない接点のひとつたりうるのだということを。
そういうひとたち(これには私も含まれるかもしれない)にとってのツイッターとはなんなのだろうか。きっとたいせつなもの、手放せないものなのだろう。
「議論」に使わなければツイッターはだいじょぶなプラットフォームなのだろうか。
そうではない、とおもう。140字は長いようで、短い。その短さに慣れてしまうのは、こわい。
ひとにとってほんとうに言いたいことというものはたったひとことなのかもしれない。それでも、それをもっと肉付けしてていねいにくるんで手わたす作業が必要なようにおもう。
青山七恵は、『すみれ』のなかでレミちゃんに、ほんとうに言いたいたったひとつのことを幾重にもくるんで相手にわたすことについて、それを相手が汲み取ったときに本人がいないことについて問題提起させている。私はそうやって相手にわたしたものを相手が受け取って、ほどいて、ほんとうに言いたいたったひとつのことにたどり着いたとき、本人がそこにいないのはずるいとおもう。私は、逃げずにそこにいたい。
ほんとうに言いたいたったひとつのことを幾重ものことばでくるんでしまうこと、それを放り出してしまうことは下品になってしまうことからの逃げなのかもしれない。
逃げでもいい、とおもう。放り出さなければ、それをじぶんのものとしてしっかり持っていれば、そのことばはあなたの、そして私の武器となる。
だから一緒に抜け出そう。140字の縛りのなかから。