このあいだの海野弘『クィア・アートの世界』といい、今回のイソップのクィア・ライブラリーといい、「クィア」ということばが前面に出された本の出版やイベントが相次いでいる。
もともと、「クィア」とは「おかしな」、「奇妙な」、といった意味を持ち、それが侮蔑語としてセクシュアルマイノリティたちに投げつけられてきたことばであった。そしてそれを「あえて」引き受け、その意味の再領有、攪乱的な意味づけを試みたのが1990年代以降のクィア理論である。
私は、「クィア」とは私たちセクシュアルマイノリティにとって、その〈生〉の奪還を目指すための連帯の語であるとかんがえている。
それなのに、海野弘の『クィア・アートの世界』のキャッチフレーズは、
すべてのアートは自由でクィア(ちょっと変わった、不思議)である
であった。意味がもとに戻されている。
イソップでのクィアライブラリーでは、伏見憲明の本が選書に入っていて、そのインタビュー記事がホームページに掲載された。インタビュー記事での伏見のコメントには、
「クィアネス」というのがなんなのかもはやわからないのですが
( https://www.aesop.com/jp/r/pride-jp/ 、2022年10月12日閲覧)とある。「クィア」についてかんがえようとすらしていないのではないか。また、伏見は2022年9月7日のツイートで、
「トランス女性が女性じゃないという思想」は差別になるの? その根拠は?
( https://twitter.com/noriakimiya/status/1567193435534426112?s=46&t=nVTE_FWsMAd2deULkCi5zQ 、2022年10月12日閲覧)といっている。また、なにが「ほんものの」トランスジェンダーなのか、ということを「議論」できるとかんがえており、いま、ここにいるトランスジェンダーたちの〈生〉を無視している。
イソップがそのようなひとを起用しようとした意図はなんだったのだろうか。「クィア」ということばをつかうにあたって、その重要性を軽んじているような、ひとを当たり前のように差別するようなひとを、なぜ。
ひとのたたかいの歴史を無視して意味をもとに戻そうとするなら、それはたんなる暴力である。反差別の意図の入ったことばを差別者にゆだねるのなら、それはことばの虐げである。「クィア」ということばをつかうことにたいしてもっと神経をはりつめるべきだ。