ときどき、恋人の話がわからないことがある。本気で、なにを言っているのかがわからないのだ。
恋人は、いわゆる「トップクラス」と呼ばれるような大学の、いちばんむずかしいとされる学部を出ている。一方で私は中堅〜難関といわれるくらいの私立大学の文学部から、いわゆる中堅どころの公立大学院を出た。
学歴や学力と呼ばれる尺度において、私は完全に置いていかれている。
恋人は、すごく広い視野を持っていて、すごくはやいスピードでものごとを吸収していく。それは個人の資質のほかにアカデミックなバックグラウンドに裏打ちされているからだな、とおもう。ついていけない。私は、恋人と同じようなはやさではしることができない。
それでも恋人と話をしているのは楽しい。新しいことをたくさん知ることができて、教えられることも多い。反対に、私のほうが知っていることもあり、そういうことを説明するのも楽しい。気持ちいいとすらおもってしまう。危険だな、とおもう。
話が「通じる」かどうかという問題は根深い、とおもっている。私だけかもしれないが。
たとえば、私は以前はよく出会い系サイトやマッチングアプリを使っていた。そこで知り合う人たちはさまざまなバックグラウンドを持っていて、おもしろいとおもうこともあったが、話が「通じない」な、とおもってしまうことも多かった。
それは持っているバックグラウンドがあまりにも違いすぎることによるものだった。家庭環境だったり、学歴だったり……。
だから大学のともだちなど似たようなバックグラウンドを持っている人たちとは話が「通じる」と感じてしまい、勝手に居心地のよさを得ていた。
その、話が「通じる」という感覚は、とてもあやうい。なぜなら、それはほんとうは省略してはいけないもろもろのことがらを省略しても「通じる」ということであるし、それによって容易に人を分断してしまうからだ。
省略しても「通じる」ということは、ある意味で特権だ。その省略されてしまったもろもろのことがらに対する丁寧さを欠いているばかりでなく、それらの丁寧さを必要とする人びとを踏みつけているからだ。
どのようなバックグラウンドを持っていても(持っていなくても)、私たちは、ともにある。
もちろんみなが同じゴールを目指しているわけではないし、同じはやさではしることもない。それでも、私たちはともにあって、ときに手を取りあい、分かちあう。
対立することもある。わかりあえなさに嘆くこともある。それでも。
私は、あなたに、生きていてほしいとおもう。こんなのは一方的なエゴかもしれないけれど。
ともにありたい。