ちいさいときから演劇やショーをみるのはすきだった。都内にはすこし時間がかかるが電車一本で出られるところで育った私は、芸術や文化というものがすきな親に連れられ、よく劇場に足を運んだ。帝国劇場のような大規模で、国の偉いところにおすみつきを与えられるようなところから、下北沢のちいさな劇場まで、ほんとうにいろいろ。こういうのを文化資本に恵まれているというのだろう。とにかく、そういう育ち方だった。それでも都内に出るのには時間がかかるし、そこでなにかしようとするならなによりお金がかかる。周りに週末の過ごし方を話せる人はいなかった。でも、親曰く「高校にはそういう話のできる友人がいる」とのことで、よりはやく大人に近づいたり、よりよい学校に通うことで解決するのだと思っていた。だから地元でいちばんの公立高校にはいって演劇系の部活にはいり、だれひとりとして私と同じような「育ち方」をしていないことが判明してその部活を即座に辞めたとき、絶望した。遠くても、もっと都内に近いところで私立のところを受験しておけばよかったとすら思った。
反吐が出る。
想像以上に自分の特権意識にがんじがらめになっているこじらせの記録が長引いてしまった。こういうところがあるから私は私のことがすきだけどすきになれない。すきだから、もっといろんな人に認めてもらいたい。すきになれないから、すきになれる私になりたい。
劇場という装置はすごい。みるものに視線の暴力を発動させ、欲望を喚起する。それがゆるされてしまう。舞台とじぶんが渾然一体となって意識におそいかかり、じぶんがもはやなにものなのかがわからなくなる。ただ、いる、という感覚。ちいさいときはそういうのがただただ楽しくて、無邪気によろこんでいた。舞台をみているあいだは、私はなんにでもなれた。演者との同一化ができた。
しかし、ある程度成長したらできなくなってしまった。私は男ではなかった。私は細く、すらりとした長身ではなかった。私の声は、いつまでも舌足らずだった。中学生ではじめてみた宝塚も、一瞬にして私を魅了したが、同時に絶望の淵へと追いやった。私は、あの舞台に立てる人間ではなかった。
観劇はよくしていたけれど、ここに私の居場所はないんじゃないか、と、どこかで思っていた。
そんなときにみたストリップは、いままでの私をまるごと受け止めてくれた。「美」とされるものにある種の画一的な基準がなくて、それなのにどんな姿もうつくしいと思わせる技の巧みさ。裸体になるまでの過程をすこし前のめりに、けれども余裕を持ちながらみている客席。
鍛え抜かれているけれど、個性があることが重んじられている踊り子さんたちの姿になにより救われた。「美」がうたわれる舞台にもいろいろな人がいていいんだと思わせてくれた。
2025年の5月もなかばをすぎて、私は友人と浅草ロック座の入場券の購入列にいた。雨と風が強く、大きめの傘をさしていたにもかかわらず私はびしょぬれになってしまった。こんな天気だからあまり人も並ばないだろうとたかを括って開場1時間前に劇場前に着いたら、すでに数十人が並んでいて、私たちのあとにはすぐに長蛇の列ができていた。私の着ていたワンピースはもはやしぼれば水が滴るほどにびしょびしょだったが、なにがなんでもそこを動くわけにはいかなかった。目の前にはなんとユニクロがある。今すぐはいりたい。はいって、あたらしい服を買って着替えたい。列を抜け出そうという邪念がよぎることもあったが、そこまでしてでもチケットにありつきたい気持ちはすさまじかった。なぜなら、前日にSNSでパブリックサーチをしたところ、「フラッグパフォーマンス」や「レインボーフラッグ」というワードが引っかかり、おおお??となっていて、もしかしたら、ほんとうにもしかしたら、クィアのシンボルとしてのレインボーフラッグが出てくるのではないか??という期待をしていたからだ。
やっと開場時間になり、チケットを買うと一目散に私はユニクロへと走り、値段もみずに適当なワンピースを買った。お手洗いで着替える。さっぱり。
今回みたのは「Muse 2nd」という興行で、古今東西のさまざまなアートシーンをモチーフにしているのだそう。
レインボーフラッグが出てくるとしたらここかな?と思っていた6景。ヒッピーっぽい人たちが出てきたと思ったら桜庭うれあさんはなんとオノヨーコ!!芯が強そうな表情をみせながら、なんと振り回しますのはおおきなおおきなレインボーフラッグ!!!!これはもうクィアのシンボルとしてのレインボーフラッグでしかない!!!!アツい!!!!サイコー!!!!
今までもクィアであったり、クィア的なものがモチーフになった演目はみたことがあったけれど、ここまで明確に打ち出してきたのをみたのははじめてだった。ただ、いま現在が平和であり、その平和を象徴するかのような使われかたであったのがすこしかなしくもあった。いまの世、ぜんぜん平和じゃない。でも、それでも、クィアのシンボルをおおきく堂々と使ってくれたのはほんとうにうれしくて、泣いた。その人がどんな人であろうが、その人は尊重されなければならない一個人である。 すべての人間は、法の下に平等であり、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されないのだ。アイデンティティひとつで扱いが変わるなんてこと、そんなことがあってはならない。
ストリップは魔法じゃないかもしれない。つねにただしく、完璧なわけでもない。そんななかで私はストリップに救われ、ふたたび舞台の世界にダイブすることを受け入れてもらえた。どんなバッググラウンドがあろうと、どんな傷を抱えていても、どんなアイデンティティであろうとも、私はこの場所で自由だ。
ストリップ劇場の相次ぐ閉館等によりきびしい昨今であるが、私はそこにストリップがあるかぎり生きられるだろう。