絶対運命黙示録

だいたいツイッターにいます@wenoim

世界を見捨てない者たちの

※諸般の事情により寄稿を見送ったZINEの原稿です。

 

 2015年、当時大学1年だった私はサークルの先輩たちに誘われるかたちではじめてデモに行った。安保法案の強行採決に反対するデモだった。首都圏とはいっても田舎で育った私にとってデモは未知の世界で、具体的にどんなことをするのか、よくわかっていなかった。スピーチにシュプレヒコール、怒りの声......。叫ばれているものはどれも真っ当な抵抗の声で、どうしてこれを知らなかったのだろう、と思った。これは数年後に気づかされることだが、デモってほんとうに報道されない。知らなかったのも無理はないことだ。その後、私は政治について話せる友人を誘ったりして、デモに参加するようになった。

 しかし、デモとはいってもヘイトデモなるものもあることを知り、それに対するカウンターデモもあることを知った。

 私がデモデビューしてから10年近くになろうとしている。デモで変わらなかったことも、デモではない、あってはならない暴力によって変わったことも、あった。20歳になり、選挙権を得たとき、この1票で未来をよりよくするのだという気持ちでいた。どの選挙でも、支持政党が「勝つ」ことはなかった。選挙があるたびに、だれかの無知が、悪意が、ひとの尊厳を奪う方向に動くたびに、私はデモに行き、抵抗を叫んだ。

 SNSをしていると、さまざまなデモの形態を知ることがある。ぬいぐるみにプラカードを持たせてデモ行進させるひとも、キャラクターがデモ参加しているイラストを描くひとも、ハッシュタグアクティビズムをするひともいた。また、外でのデモのなかにも、サイレントデモやシットイン、本読みデモなどのかたちもあることを知った。

 いま、私はパレスチナのためのデモに参加することが多い。デモによって変わったこともあるが、それでガザに投下される爆弾の数を減らせたかどうかはわからない。空爆のニュースや、餓死者の報道を見るたびに無力感におそわれる。

 変わっているのかいないのかわからない。それでも世界を見捨てたくはない。間違えたことをしたくない。たったひとつでもいいから、自分にとって正しかったんだと思えることがほしい。なにもしない存在だと思われたくない。なにもできない存在だと思われたくない。無害で、ただ愛想を振りまくだけの存在になりたくない。

「でも行こう、デモ行こう」、そう口ずさみながら、梅田、新宿、自民党本部前、インターネットのなか......この世界のどこにも、どこにでも、無数の抵抗する私が、私/たちが、いる。

空想上のふたご


 私はひとりっ子だから、きょうだいがいるっていうのがどんなことかわからない。でも、ときどき、どうしてだか私にはもうひとりふたごのきょうだいがいるんじゃないかっておもうときがある。『ふたりのロッテ』を読んだとき、これだ!ってなった。もしかしたら、どこかでとりちがえられて、べつのところに住んでいる、ふたごのきょうだい。なんでふたごかっていうと、私は背が低いから、きっともう半分がいるにちがいないというのと、こんなに気持ちを打ち明けたいだれかっていうのはそうとう稀有な存在だとおもうから。

 私は今年で28になるけど、こんなことを考えずにはいられない。私に、ふたごのきょうだいがいるかもしれないって。

 人生をやっていくうえで必要にせまられて戸籍とか見たことがあるけど、ふたごはいなかった。親にも聞いたけど、そんな子どもはいませんって言われた。

 ままならないねえ、でも、私はあなたに会えるのをずっと楽しみにしている。私たち、きっといい、気の合うふたごで、ともだちで、仲間になれるとおもう。

間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』あるいは長濵よし野の竹村和子論について

 


※ネタバレを多く含みます

 


https://note.com/jimbunshoin/n/n537226ff8b4e?sub_rt=share_b 

 


 上記リンクは長濵による竹村和子論。

 

 

 

「わたし」は、今思う。「あなた」を思う。これまで出会ったすべての人を、景色を、出来事を、作品を、そして目を合わせたわけではないけれど、遠い過去の人々の息遣いを、そのすべてを、「あなた」として思う。そしてまだ出会ったことのない、これから出会うかもしれないし、出会わないかもしれないすべての「あなた」を出来る限り思う。
 「わたし」は、だれのこともなかったことにしたくない。これからもしない。そしてそれを、言葉だけにしたくない。わたしには限界があり、傷つけられる可能性と同時に傷つけることも可能性としてもち、また沢山の間違いをすでにしている。だから信じなくてもいい。わたしさえ、欺瞞かもしれないと思う。それでもなお、わたしは、すべての「あなた」をなかったことにしたくない。「あなた」に出会うわたしのことも、なかったことにしたくない。(長濵)

 


 私は竹村和子をじっくりと読んだことがないので竹村和子についての具体的な批評についてはあまり触れられない。しかし、先ほど長々と引用したような、長濵の話を〈知って〉いる。なぜなら、間宮改衣の『ここはすべての夜明けまえ』を読んだからだ。

 


『ここはすべての夜明けまえ』は、主人公の「わたし」による述懐である。「おとうさん」(ーー虐待をしてきた、支配、抑圧をするものとしての「おとうさん」)によってひまつぶしとして提案される家族史を、家族のだれもがいなくなってから「わたし」は語りはじめる。本書は三部構成になっており、第一部では紙に書き留めるかたちで、第二部ではトムラさんに話すかたちで、第三部ではほかのだれでもない相手に向かって、語り出す。「わたし」を抑圧し、支配してきた「おとうさん」からの呪縛のような提案を受け入れ、はなしだす(書きだす)「わたし」は、徐々に自分の言語を獲得していく。そしてほかならない「わたし」をみつめなおし、「わたし」と手を取り合うことを決意するのだ。

 本書は「わたし」の視点で、「わたし」がみたこときいたこと、されたことが思い出される順に語られるため、当初はちぐはぐさがあるように感じられるが、徐々にそれが一貫した記憶となって読者の前にあらわれる。

 そしてーーそして、なにより重要なのは、「わたし」が「おとうさん」に精神的・性的虐待を受けてきたこと、それを今度は「愛」があるように見せかけて甥であり恋人である「シンちゃん」を支配してきた「わたし」を「わたし」が認めたことだ。そしてその上で「わたし」は「じんせいでたったひとつでいいから、わたしはまちがってなかったっておもうことがしたい」という。今まで流されるままだったように見えた「わたし」の意志はかたい。

「わたしのばあいはたぶん、じぶんをゆるさないことでしか、ほんとうのいみで、じぶんをゆるせないんです」、「わたしは、このよでわたしだけは、わたしがやったことを、きちんとみつめなければいけないとおもうんです」

 トムラさんに記憶のデータの書き換えを提案された「わたし」はこう言い切るのだ。

 このあとの「わたし」がどうなるかはわからない。それでも、今までに出会ってきた「あなた」を、そしてまた「あなた」に出会った「わたし」をなかったことにはしたくないという「わたし」の確固たる意志は、長濵の批評に通じるものがある。

 


 私は『ここはすべての夜明けまえ』の読了直後に長濵の批評を読んだ。だからかもしれないけれど、私は、「なかったことにしない」という決意を、二人の共鳴を、フェミニズムをつづけていくための重要な交差点だと思うのである。

※性暴力のはなしです。

 

 

 

 大切なものをドブに捨てたかもしれなくて、私は取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない。

 7年前に振るわれたひどい暴力について考えている。考えたところでそれがどうなるわけでもないし、なくなるわけでもない。雨が降っていたのに、傘をささなかったこと、傘はあってさせたはずなのにと思っていること、傘をさすことを「お願い」しても、それが許されなかったこと。それらのすべてが呪いのようになって私を支配している。

 はじめに暴力が振るわれたとき、私にとって「そういうこと」はほんとうにはじめてのことで、なにもわかっていなかった。ただ、中高で教わったように、合意の形成とか、避妊とか、そういう、いちばんたいせつなことがなにひとつなされなかったことだけはわかった。それでも「合意」はあったと思わされていて、私もそれに頷いてしまったのだから仕方がない、私が悪いんだと思った。

 それからはずっとだった。私は「そういう」お店で働くようになり、お店の禁止事項にあったにもかかわらず言い寄ってきたひと全員に過度な身体接触を許してしまった。お店は疲れて3か月ちょっとでやめた。

 すきなひとができた。付き合った。セックスした。私は混乱した。知らないひととするのとなにもちがいを見出せなかったから。愛が足りていないしお互いにすき同士じゃないんだと思った。私は相手を試し、ひどく傷つけるようなことばかりした。2年ほどで別れてしまった。

 そのあともなん人かと付き合ったけれど、なんど試してもそれは全部同じようなものに思えた。私がなんども試そうとするので、どの相手からも私は「そういうのがすきな女」だと思われていた。

 さいきんになってやっとそれが暴力だったことに気がついた。巷で耳にする「愛のあるセックス」概念なんて幻想で、愛があったとしても、みずから望んでいたとしても、そこに暴力はいつもつきまとうし、傷つかないなんてことはないのだ。そうともわからずに暴力にまたべつのだれかを巻き込んで、傷つけて、そうやって生き延びてきたじぶんが恥ずかしい。

『残酷な神が支配する』感想

 

残酷な神が支配する』をさいごまで読みました。足立典子の指摘(注1)するように、本作品は『トーマの心臓』批判でありながら、萩尾望都自身の愛についてのひとつの区切りであるように感じました。暴力はときに愛の名を騙り、愛の名のもとに正当化されます。愛を騙った暴力が行使されたとき、それを受けた側はそれが正当なものだったのだと思い、被害に遭った自分を責め、それゆえに苦しみます。主人公のジェルミはそうです。ジェルミは暴力に耐えきれなくなった挙句、取り返しのつかないことをしてしまい、それをどうしたらいいかわかっていません。そして、次々と明らかになる真実を目の当たりにするたびに、かれは幻覚におそわれ、愛をおそれます。

 愛はすべからく暴力である、とは思いたくありませんが、愛には確かに暴力性も含まれているのだということを萩尾は本作品で描いています。そこにはもう「神さまからの赦し」を希求するユリスモールはいません。そんな幻想からはもう卒業すると言わんばかりにジェルミは愛に反発します。

 


イグアナの娘』で萩尾は母娘関係に踏み込み、母のつらさをも理解しようとします。この作品のなかで萩尾は母から受けた傷の行く末を丁寧に描き切ります。そんな萩尾だからこそ、イアンによるジェルミの「生みなおし」があったのだと思うし、「母」たちを脈々と苦しめてきた母性の呪いから「母」を解放しようとするのです。

 


 かつてイアンやジェルミという存在がいたこと、そしていまもこの世界のどこかにかれらはいるのだと思うとどうしようもない気持ちになります。かれらは若く、ものごとを素直に受け入れすぎる傾向があります。しかしそれと同時にものごとを曲解し、自身との距離をはかりかねている部分もあるのです。私はイアンやジェルミがかれら自身を苦しめるくびきから解放されることを願ってやみません。そして、大人として、愛を過信し、自身の支配欲を愛の名のもとに正当化するようなことをしてはならないと思うのです。

 


 愛を甘い感傷によってかたる時代は終わりました。愛はときにひとを傷つける可能性を秘めています。私/たちはその傷つきを愛の副産物として仕方なしに受け入れることをやめなければならないのです。これ以上ジェルミの苦しみを生み出さないために。

 


注1

足立典子「これは仮定だけど、そんなときはぼく」、『女?日本?美?』216頁

「現在連載中の萩尾望都残酷な神が支配する」は、「トーマの心臓」の主題を、その甘い感傷から引きずり下ろす作家自身による『トーマ』批判の様相を呈してきた。

 七〇年代に書かれた「トーマの心臓』は、暴力の犠牲者であることによってすでに背負わなければならない共犯性と、それゆえの「愛」への戸惑いをめぐる物語だった。いま、ユリスモールの胸に押しつけられた「煙草の火」は、ジェルミを加虐の快楽の対象とする義父の男根として、胸に残る「火傷の傷跡」は義父を母親もろとも殺害した烙印として、その本来の姿で描きなおされようとしているーージェルミはおそらく、ユーリのように「神さまは、人がなんであろうと、いつも愛してくださってるということが、わかったんです」と微笑むことはないだろう。そこにはもはや、ユーリのために命を捧げたトーマ、「愛」の神、「永遠に女性的なるもの」が存在しないからであるーージェルミにとって「愛」とは、義父の暴力につけられた別名にほかならない。それは、いかなる暴力をもその共振空間のもとへと回収しようとする少女まんがの同性「愛」の、残酷にも正確な鏡像なのである」

ゆるせないこと

 すきなひとと付き合いたくない。でも、すきなひとがほかのだれかと付き合うのは嫌だなとも思う。結局独占欲があるんだと思う。クワロマンティックを名乗っているけれども、私はただひとに執着してひとを独占しようとするだけの生き物だと思う。

 それでもってだれと付き合うわけでもなく、そういうふうにあこがれられたり、まなざされることがないことがどうしようもなくさびしいと思う。いまもそうやってそういうふうとか、そういうことばをつかって逃げようとする。ずるい、卑怯な魂胆があってどうしようもない人間だ、と思う。

 


 だれからも欲望されないことがたまらなく嫌でしょうがない。私は恋人制度廃止などと言っておきながら、自分のことしか考えられず、だれかから欲望されること=マゾヒスティックにだれかを支配することを望んでいるのだ。

 だれかに見つけてほしい、見捨てられたくない。そんなエゴにまみれた欲望を一度吐き出したら止まらなくなってしまった。なんて醜いんだろうと思う。

ゲームからは降りる


「傷ついたら相手の思う壺」

「気にしたら負け」

 


 きょうはなんども聞いた。どうやら私は気がつかないうちにそういう、「感情的になったほうが負け」ゲームに参加させられていたらしい。そして、おどろくべきことに、また、かなしいことに、社会はそういうふうなひとたちでできているんだって社会的強者寄りの位置にいる父親に知らされた。

 私はそんなゲームなんか知らない。知ってたのかもしれないけど、乗らない。降りる。降ろして!!降りて逃げる。逃げるのはべつに悪いことでも卑怯なことでもない。

 感情にふたをして、なんでもないですよというふうをよそおってやりすごすのがこの社会ではお行儀のよいことなんだろう。

 知るか!!私は傷ついたし怒っている、そのことを否定されてたまるか。ひどいことばを見て感情的になることはごく自然のことだとおもう。それを隠すだとか、抑えるというのは不健康でなくてなんなのだろう。

 私はもう出て行くけど、あなたたちはそうやって悪意のババ抜きみたいなゲームをおつづけなさってくださいな。

 


ゲームからは降りる。