泣いて喚いて死なせてくれと叫ぶ夜がある。
それを見た同居家族が泣きながらそんなことはやめてくれと言うのを見て、より一層こんなところから逃げ出してしまいたくなる。だが、死へ飛び込むことは逃げたことにならないし、私は自分で自分の命を絶つことを許さない。私は自死を許さない。
自死のことを「病気がそうさせたのだ、病死だ」と言うひとがいる。しかし、それは自死を正当化しないし、仕方がなかったなんてこともない。
去年の夏から今年の夏までの1年間、私の事情を垣間見たひとから毎月寄付を受けていた。個人から、労働の対価としてではなく、ただ生きていてほしいからという理由で支払われる月々のお金は、1年間私を生きながらえさせた。どんなに苦しくてつらくても、毎月同じ日にお金が振り込まれることによって安堵できる時間があった。
性暴力サバイバーになってから、一時期SW(ソーシャルワーカーではない)として働いていたことがある。ときどきチップを貰うことがあったが、大抵の場合それは規定外のサービスを要求するものであり、私はそれが苦しかった。お金を受け取ることによって性暴力が肯定される、もしくは同意とみなされることに絶望した。
どこで読んだのかを失念してしまったが、「性暴力サバイバーがSWとして働くことで、自身に起きたことを客観的に捉え、どこが問題なのかを確認し、トラウマケアの一環になることがある」という文章を読んだことがある。
私の場合はトラウマケアどころか新たなトラウマを増やすだけだったようにも思えるが、それでもいまこうして生きていること、生きて、過去を分析しようとする力がはたらいていることを考えると、決して無駄なこととも言い切れないのではないか。
いままでの人生、いいことも悪いこともたくさんあって、はたから見れば自傷行為のようなことも数えきれないほどしてきた。しかし、それらは私を生かす方向に動いてきたし、生き延びるためにしてきたことを、私は否定したくない。