絶対運命黙示録

だいたいツイッターにいます@wenoim

『ウーマン・トーキング』感想

 


※ネタバレを含みます。

 


 未来にひらかれたフェミニズム映画、ということばがいちばんしっくりくるような映画だった。

 


 薬物によって眠らされている間に起きる連続レイプ事件。男たちが逮捕された男たちの保釈金を払うために村を出ている間、女たちは話し合う。今後どうするべきか。残ってなにもしないか、男と闘うか、出て行くか。選択肢は3つある。投票の結果、闘うか出ていくかで話し合いが開かれることになる。

 ただ、ここにはひとりの男性が記録係として参加する。彼は昔村を追い出された家族の息子であり、大学を出、いまは村で教師をしている。彼は女性たちの話し合いの場で決して妨害するようなことも、女性を見下すこともない。なにもかもを「わきまえて」いる。だから「害のない」男性としてある種の信頼を得ている。

 議論は白熱し、ときに堂々めぐりになり、混線したりしながらも進んでいく。最終的な決断をくだし、村を出ていくとなったとき、だれを連れて行くのか、も重要なポイントとして話し合われる。

 私はここで強烈な違和感をおぼえた。「教育」を受けていない男性はすべからく加害者になりうるのか?加害者はすべて男性なのか?女性間で性暴力は起きないのか?トランス男性は同行するが、登場しないトランス女性はどうなるのか?そもそも被害を受けたのはトランス男性とシス女性だけなのか?シス男性が被害に遭ったことはないのか?などなど。

「女性による、女性のためのあたらしいコミュニティ」といえば安全で、安心できるのかもしれない。でも、女性間でも性暴力は起こりうるという可能性を排除しすぎていないか?「教育」がほんとうに私/たちを救うのならば、どうして大学内で性暴力事件が後を絶たないのか?

 


 なにが正解なのか、わからない。ここに描かれているのは一種のユートピアだ。これが正解だなんて思わない。ただ、この映画は、私/たちに未来への可能性をひらいてくれたのだとおもう。