絶対運命黙示録

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Nichts, nichts, gar nichts?

 

 ウィーンミュージカル『エリザベート』は宝塚歌劇でもお馴染みの演目となっており、日本ではよく知られている。

 


 あらすじとしては、"黄泉の帝王"(ウィーン版では"死")トートに見初められたエリザベート(シシィ)がオーストリア皇后となり、ルイジ・ルキーニに暗殺されるまでの人生を描いたものである。

 


 ここでは、ミュージカル『エリザベート』における「魂の自由」を考察する。

 


 とくにこれといった役職を持たない富裕で有閑な貴族に生まれ、詩や乗馬を好み、好きなことを好きなときにできる、「自由」でいることが好きだったシシィ。彼女は「シンデレラストーリー」といわれるような展開を経てフランツ・ヨーゼフ2世のもとに嫁ぐことになる。しかしそうして皇后となったことで金銭面以外での「自由」は奪われてしまう。「シンデレラ」のその先は、めでたしめでたしでは終わらないのだ。

 


 シシィは徐々に精神を追い詰められ、「魂の自由」を求めて「療養」と称し旅に出るようになる。だが、それでも「自由」になることはできない。シシィがよく精神病院を訪れ、精神疾患患者を観察していたというのは有名な話だ。ミュージカルでも精神病院を訪問するシーンはある。そこでのヴィンディッシュ嬢との対面は非常に印象的に演出される。精神を病み、自身をシシィであると思い込んでいるヴィンディッシュ嬢は、シシィに跪くよう命令する。わめくヴィンディッシュ嬢を周囲の人間がおさえつけるが、シシィはそれを制して「もし代われるなら代わってもいい」、「私の孤独に耐えられるなら」といい、「私の魂は旅を続けても束縛されたまま」だと歌う。そして「あなたの方が自由」というのである。ここでのシシィとヴィンディッシュ嬢は対称的な存在とされる。

 


 だがしかし、それはほんとうに対称なのだろうか。精神を「病み」、「正常に」ものごとを判断できない状態であり、身体を半ば拘束されている人間を取り上げて「魂の自由」を持つ存在として演出するのはいかがなものだろうか。対話の(不)可能性を無視し、一方的に決めつける行為は暴力でしかないのではないか。

 


 最終的にはルキーニに暗殺され、死によって(トートを受け入れることで)魂を救済されるシシィ。

 


 『エリザベート』における「魂の自由」とは、エゴイスティックな亡霊に過ぎないのではないだろうか。