絶対運命黙示録

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『残酷な神が支配する』感想

 

残酷な神が支配する』をさいごまで読みました。足立典子の指摘(注1)するように、本作品は『トーマの心臓』批判でありながら、萩尾望都自身の愛についてのひとつの区切りであるように感じました。暴力はときに愛の名を騙り、愛の名のもとに正当化されます。愛を騙った暴力が行使されたとき、それを受けた側はそれが正当なものだったのだと思い、被害に遭った自分を責め、それゆえに苦しみます。主人公のジェルミはそうです。ジェルミは暴力に耐えきれなくなった挙句、取り返しのつかないことをしてしまい、それをどうしたらいいかわかっていません。そして、次々と明らかになる真実を目の当たりにするたびに、かれは幻覚におそわれ、愛をおそれます。

 愛はすべからく暴力である、とは思いたくありませんが、愛には確かに暴力性も含まれているのだということを萩尾は本作品で描いています。そこにはもう「神さまからの赦し」を希求するユリスモールはいません。そんな幻想からはもう卒業すると言わんばかりにジェルミは愛に反発します。

 


イグアナの娘』で萩尾は母娘関係に踏み込み、母のつらさをも理解しようとします。この作品のなかで萩尾は母から受けた傷の行く末を丁寧に描き切ります。そんな萩尾だからこそ、イアンによるジェルミの「生みなおし」があったのだと思うし、「母」たちを脈々と苦しめてきた母性の呪いから「母」を解放しようとするのです。

 


 かつてイアンやジェルミという存在がいたこと、そしていまもこの世界のどこかにかれらはいるのだと思うとどうしようもない気持ちになります。かれらは若く、ものごとを素直に受け入れすぎる傾向があります。しかしそれと同時にものごとを曲解し、自身との距離をはかりかねている部分もあるのです。私はイアンやジェルミがかれら自身を苦しめるくびきから解放されることを願ってやみません。そして、大人として、愛を過信し、自身の支配欲を愛の名のもとに正当化するようなことをしてはならないと思うのです。

 


 愛を甘い感傷によってかたる時代は終わりました。愛はときにひとを傷つける可能性を秘めています。私/たちはその傷つきを愛の副産物として仕方なしに受け入れることをやめなければならないのです。これ以上ジェルミの苦しみを生み出さないために。

 


注1

足立典子「これは仮定だけど、そんなときはぼく」、『女?日本?美?』216頁

「現在連載中の萩尾望都残酷な神が支配する」は、「トーマの心臓」の主題を、その甘い感傷から引きずり下ろす作家自身による『トーマ』批判の様相を呈してきた。

 七〇年代に書かれた「トーマの心臓』は、暴力の犠牲者であることによってすでに背負わなければならない共犯性と、それゆえの「愛」への戸惑いをめぐる物語だった。いま、ユリスモールの胸に押しつけられた「煙草の火」は、ジェルミを加虐の快楽の対象とする義父の男根として、胸に残る「火傷の傷跡」は義父を母親もろとも殺害した烙印として、その本来の姿で描きなおされようとしているーージェルミはおそらく、ユーリのように「神さまは、人がなんであろうと、いつも愛してくださってるということが、わかったんです」と微笑むことはないだろう。そこにはもはや、ユーリのために命を捧げたトーマ、「愛」の神、「永遠に女性的なるもの」が存在しないからであるーージェルミにとって「愛」とは、義父の暴力につけられた別名にほかならない。それは、いかなる暴力をもその共振空間のもとへと回収しようとする少女まんがの同性「愛」の、残酷にも正確な鏡像なのである」