絶対運命黙示録

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間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』あるいは長濵よし野の竹村和子論について

 


※ネタバレを多く含みます

 


https://note.com/jimbunshoin/n/n537226ff8b4e?sub_rt=share_b 

 


 上記リンクは長濵による竹村和子論。

 

 

 

「わたし」は、今思う。「あなた」を思う。これまで出会ったすべての人を、景色を、出来事を、作品を、そして目を合わせたわけではないけれど、遠い過去の人々の息遣いを、そのすべてを、「あなた」として思う。そしてまだ出会ったことのない、これから出会うかもしれないし、出会わないかもしれないすべての「あなた」を出来る限り思う。
 「わたし」は、だれのこともなかったことにしたくない。これからもしない。そしてそれを、言葉だけにしたくない。わたしには限界があり、傷つけられる可能性と同時に傷つけることも可能性としてもち、また沢山の間違いをすでにしている。だから信じなくてもいい。わたしさえ、欺瞞かもしれないと思う。それでもなお、わたしは、すべての「あなた」をなかったことにしたくない。「あなた」に出会うわたしのことも、なかったことにしたくない。(長濵)

 


 私は竹村和子をじっくりと読んだことがないので竹村和子についての具体的な批評についてはあまり触れられない。しかし、先ほど長々と引用したような、長濵の話を〈知って〉いる。なぜなら、間宮改衣の『ここはすべての夜明けまえ』を読んだからだ。

 


『ここはすべての夜明けまえ』は、主人公の「わたし」による述懐である。「おとうさん」(ーー虐待をしてきた、支配、抑圧をするものとしての「おとうさん」)によってひまつぶしとして提案される家族史を、家族のだれもがいなくなってから「わたし」は語りはじめる。本書は三部構成になっており、第一部では紙に書き留めるかたちで、第二部ではトムラさんに話すかたちで、第三部ではほかのだれでもない相手に向かって、語り出す。「わたし」を抑圧し、支配してきた「おとうさん」からの呪縛のような提案を受け入れ、はなしだす(書きだす)「わたし」は、徐々に自分の言語を獲得していく。そしてほかならない「わたし」をみつめなおし、「わたし」と手を取り合うことを決意するのだ。

 本書は「わたし」の視点で、「わたし」がみたこときいたこと、されたことが思い出される順に語られるため、当初はちぐはぐさがあるように感じられるが、徐々にそれが一貫した記憶となって読者の前にあらわれる。

 そしてーーそして、なにより重要なのは、「わたし」が「おとうさん」に精神的・性的虐待を受けてきたこと、それを今度は「愛」があるように見せかけて甥であり恋人である「シンちゃん」を支配してきた「わたし」を「わたし」が認めたことだ。そしてその上で「わたし」は「じんせいでたったひとつでいいから、わたしはまちがってなかったっておもうことがしたい」という。今まで流されるままだったように見えた「わたし」の意志はかたい。

「わたしのばあいはたぶん、じぶんをゆるさないことでしか、ほんとうのいみで、じぶんをゆるせないんです」、「わたしは、このよでわたしだけは、わたしがやったことを、きちんとみつめなければいけないとおもうんです」

 トムラさんに記憶のデータの書き換えを提案された「わたし」はこう言い切るのだ。

 このあとの「わたし」がどうなるかはわからない。それでも、今までに出会ってきた「あなた」を、そしてまた「あなた」に出会った「わたし」をなかったことにはしたくないという「わたし」の確固たる意志は、長濵の批評に通じるものがある。

 


 私は『ここはすべての夜明けまえ』の読了直後に長濵の批評を読んだ。だからかもしれないけれど、私は、「なかったことにしない」という決意を、二人の共鳴を、フェミニズムをつづけていくための重要な交差点だと思うのである。