※性暴力のはなしです。
大切なものをドブに捨てたかもしれなくて、私は取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない。
7年前に振るわれたひどい暴力について考えている。考えたところでそれがどうなるわけでもないし、なくなるわけでもない。雨が降っていたのに、傘をささなかったこと、傘はあってさせたはずなのにと思っていること、傘をさすことを「お願い」しても、それが許されなかったこと。それらのすべてが呪いのようになって私を支配している。
はじめに暴力が振るわれたとき、私にとって「そういうこと」はほんとうにはじめてのことで、なにもわかっていなかった。ただ、中高で教わったように、合意の形成とか、避妊とか、そういう、いちばんたいせつなことがなにひとつなされなかったことだけはわかった。それでも「合意」はあったと思わされていて、私もそれに頷いてしまったのだから仕方がない、私が悪いんだと思った。
それからはずっとだった。私は「そういう」お店で働くようになり、お店の禁止事項にあったにもかかわらず言い寄ってきたひと全員に過度な身体接触を許してしまった。お店は疲れて3か月ちょっとでやめた。
すきなひとができた。付き合った。セックスした。私は混乱した。知らないひととするのとなにもちがいを見出せなかったから。愛が足りていないしお互いにすき同士じゃないんだと思った。私は相手を試し、ひどく傷つけるようなことばかりした。2年ほどで別れてしまった。
そのあともなん人かと付き合ったけれど、なんど試してもそれは全部同じようなものに思えた。私がなんども試そうとするので、どの相手からも私は「そういうのがすきな女」だと思われていた。
さいきんになってやっとそれが暴力だったことに気がついた。巷で耳にする「愛のあるセックス」概念なんて幻想で、愛があったとしても、みずから望んでいたとしても、そこに暴力はいつもつきまとうし、傷つかないなんてことはないのだ。そうともわからずに暴力にまたべつのだれかを巻き込んで、傷つけて、そうやって生き延びてきたじぶんが恥ずかしい。