文章を、書いている。私小説なのかエッセイなのかわからないものを、ひたすら、つらつらと。じぶんに起きたことや周囲にあったできごとなどを書きつらねる作業を重ねているうちに、これはいったいなんなのだろう?とおもった。
中高のころ、ずっと周囲の人間に対してサイアクな感情を抱いていた。「ほんもの」をしらないひとたちだと見下していた。当時の私は三島由紀夫に傾倒しており、三島こそが「ほんもの」だとおもっていた。
だが、最近になっておもうのは、三島のミソジニーの強さ、自己愛の強さに気絶しそうということだ。
『仮面の告白』は三島の原点であり私小説であることで有名だ。そこでの語りは女性に対する不能や男性へのあこがれを外在化させたものである。しかし、三島は女性に対し過度な期待を寄せたり、勝手に失望したりする。あるべき「女性像」をこちらにみせてくる。それだけではない。徹頭徹尾自己憐憫に浸り、批判されたい気持ちとそれに対抗したい気持ちとがないまぜになっている。よしよしされたさみたいなものが滲み出ている。
私は三島由紀夫にだけはなりたくない、とおもった。そのためにも、過去のじぶんと決別し、もう一度手をとる作業をしなければならない。自身をさらけ出しながらも決して自己憐憫に浸るなんてことはしたくないのだ。
文章を、書いている。私小説なのかエッセイなのかわからないものを、ひたすら、つらつらと。だれに向けて書いているのかというと、それはたぶん私であり、私のようなひとたちなのだろう。
三島由紀夫にはなりたくない。自身をさらけ出すことでだれかと手をとりあえる別の地平を探りたい。