絶対運命黙示録

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劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト考察と感想

※ネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 バロックポルトガル語の「歪んだ真珠」が語源とされているが、「規範からの逸脱」をあらわす形容詞ともなっている。

 

 

 バロック美術は17世紀ヨーロッパ美術の傾向の一つとして捉えられる。特にカトリック諸国においては非常に重要な要素を含んでおり、それには対抗宗教改革がキーワードとなってくる。

 

 対抗宗教改革は1545-63年に開かれていたローマ・カトリック教会による19回目の公会議トレント公会議によって打ち出された反プロテスタント主義を掲げた一連の動きを指す。

 

 この動きは当然美術にも影響を与えた。これはプロテスタントの聖像否定への反発としてである。例えば、聖母・聖人といった聖像への崇敬の再確認が挙げられる。また、より多くの信者を得るために大衆に向けて教義を広める必要があった。すべてのものがじゅうぶんな教育を受けたわけではない当時においてはわかりやすさが必須であった。その道具として視覚的なイメージの力が教会によって利用されたのである。

 

 絵画においては聖像がさかんに題材にとられるようになり、聖書の世界をより身近なものとして受け取られるように描く必要性が出てきた。見るものの感情を引き込むための写実性、ドラマティックな演出といったこの求めに対する返答は16世紀のマニエリスムを経て17世紀のバロックにおいて完成する。

 

 『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』においてバロックは重要なキーワードである。

 

 ワイドスクリーンバロックとして提示される新たなるレヴュー、作品全体のモチーフであり概念ともされるトマト。

 

 このトマトはいわば『輪るピングドラム』において原罪のモチーフとして表される林檎を歪に変形させたものといってよいだろう。ピングドラムでは運命の果実として分けられた林檎はスタァライトにおいては破裂し、潰される。

 

 しかし、以下の引用ツイートにあるようにスタァライトにおけるトマトは「果実の中には種があり、砕け散って次の芽を出すことこそが本懐」なのである。

 

https://twitter.com/cotswolds0405/status/1400788107570470916?s=21

 

 ピングドラムで運命の果実として分けられた林檎は「規範からの逸脱」であるトマトとしてモチーフ化され、概念化される。

 

 では、ここでの「規範」とはなんなのか?どう「逸脱」しているのか?

 

 それはおそらく「舞台少女」の存在そのものが「少女」としての規範から逸脱していることであろう。舞台にすべての情熱を捧げ、「ふつうの」少女らしさを捨て去った存在としての「舞台少女」。そこには少女らしさという規範が想定されており私は違和感を覚える。「少女」としての楽しみや幸せといったものを一体誰が決めるのだろう。キリンの言うそれらのことがらからスタァライトの世界の住人は逃れることができない。こう考えたとき、「規範」からの「逸脱」はキリンの想定する内部でのことであり、すべてはキリンの思うままなのである。トマトとはキリンである。

 

 話は変わるが天堂真矢と西條クロディーヌのレヴュー、魂のレヴューにおいては髑髏と薔薇のイメージが多用されている。

 

 これはバロック期の死生観をあらわしたものであると考えられる。

 

 「調和・均整を目指すルネサンス様式に対して劇的な流動性、過剰な装飾性を特色とする。「永遠の相のもとに」がルネサンスの理想であり、「移ろい行く相のもとに」がバロックの理想である。全てが虚無であるとする「ヴァニタス」、その中で常に死を思う「メメント・モリ」、そうであるからこそ現在を生きよとする「カルペ・ディエム」という、破壊と変容の時代がもたらした3つの主題が広く見出される。」(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/バロック)

 

 特に「ヴァニタス」は聖母を意味する薔薇と死を思わせる髑髏がともに描かれることが特徴的である。「全てが虚無であるとする」のならば、このレヴューの意味とは一体なんなのであろうか。

 

 舞台とは虚構でありいずれは終わるものだ。一つの舞台が終われば舞台少女は死に、新たなる舞台で生まれ変わる。髑髏は舞台少女の死を暗示し、薔薇はその後の救済を意味しているのではないか。

 

 いずれ舞台は終わり一度は死を迎えること、舞台少女としての死を知りながらもなおその一瞬に最大限にキラめくために「今」このときに情熱を燃やす彼女たち。

 

 (あくまで)キリンの想定する規範から逸脱しながらも舞台少女としての死と生をバロック的に表現しきった『少女☆歌劇レヴュースタァライト』を私は見事だと思った。

 

 主人公的すぎるがために捉えどころのなかった愛城華恋の過去を丁寧に描き出すことで彼女をひとりの人間らしい人間として見せてくれた。レヴューにおいては露崎まひるは朗らかに狂っていたし神楽ひかりは今までにない顔を見せつけてきた。石動双葉と花柳香子のコンビは相変わらずの痴話喧嘩だった。大場ななと星見純那、天堂真矢と西条クロディーヌも今まで言われなかったことをぶつけ合い、これでもかと情熱を燃やした。

 

 エンドロールではそれぞれのその後が描かれ、舞台少女たちは新しい道に進んだ。ピースはすべて嵌ったのである。

 

 ただひとつわからないのは、第101回星翔祭の『スタァライト』のラストが描かれなかったことだ。雨宮詩音は「その先」をどう描ききったのだろうか。

 

執筆協力:友人N氏