※文学フリマ東京38で頒布したZINE『たったひとりの自分を求めて 「私」を生きていくための断章』に載せた文章です。ほかにもさまざまな方が寄稿してくださり、盛りだくさんの内容となっております。在庫まだあります。
この文章はいま、これを読んでいるあなたに、「自然で」「理想的な」「私たち」という語をなんの屈託もなく連帯のことばとして使えてしまうあなたのために書いている。
「私」と「あなた」はつねに不均衡で、持っている属性も立場も異なる完全なる「他者」であり、その共同体はいくら歩み寄っても、「私/たち」としてしか成り立たないのである。
「あなた」をうみなおす、それは、「私」から「あなた」をとりだすことであり、「私」と「あなた」を「同一化」させる行為である。うむ/うみだされる、という図式は親子間でのやりとりであるかのように受け取られ、実際そのような場合が多いのであろう。だが、そうではない場合もある。では、「うみなおし」することによって「私」と「あなた」は「自然で」「理想的な」「私たち」になることは可能なのだろうか。
ここでは、宇佐見りんの『かか』、萩尾望都の『イグアナの娘』、『残酷な神が支配する』を取り上げ、各作品に出てくる「うみなおし」について検討する。
宇佐見りんの『かか』では、主人公であるうーちゃんは母(かか)を「産み直したい」と考えている。うーちゃんはかかを母にしてしまった罪悪感を抱え、かかに血を流させることなしに出会いたかったと語る。
うーちゃんは精神的に、というよりは身体的にかかと一体化しており、かかの自傷による痛みまで同じように痛いと感じてしまう。だがそれは完全に不可能なことである。たとえ「同じ身体性」なるものが存在していたとしても、うーちゃんとかかはまったく別の人間であるからだ。宇佐見は『かか』で、かかとの境界の分かちがたさを描いており、決して再現できない「産み直し」はうーちゃんの願望を超えた祈りである。
うまれてしまった以上、「私」も「あなた」も後戻りすることはできない。母と「同じ身体性」なるものは、絶対に存在しないのだ。
萩尾望都の話をしよう。萩尾はおもに『イグアナの娘』、『残酷な神が支配する』において親子関係のわかりあえなさ、後者にいたっては断絶を描いている。
『イグアナの娘』で萩尾は母娘関係に踏み込み、娘を愛せない母のつらさをも理解しようとする。この作品のなかで萩尾は母から受けた傷の行く末を丁寧に描き切る。だが、ここにあるのは母と同じ経験をすること(出産、育児)による母の理解であり、母と「同じ身体性」を有しているがゆえに可能だったと考えられている。
だが、『イグアナの娘』の後に発表された『残酷な神が支配する』では、親子間の決定的な断絶を描く。暴力はときに愛の名を騙り、愛の名のもとに正当化される。愛を騙った暴力が行使されたとき、それを受けた側はそれが正当なものだったのだと思い、被害に遭った自分を責め、それゆえに苦しむ。主人公のジェルミはそうだ。ジェルミは暴力に耐えきれなくなった挙句、取り返しのつかないことをし、現実を歪んだ方法で受け止めようとする。そして、次々と明らかになる真実を目の当たりにするたびに、かれは幻覚におそわれ、愛をおそれる。
愛は確かに暴力性も含んでいるのだということを萩尾は本作品で描いている。そこにはもう「神さまからの赦し」を希求するユリスモール(萩尾望都『トーマの心臓』)はいない。「神さまは、人がなんであろうと、いつも愛してくださってるということが、わかったんです」そう言ってほほえむユリスモールへの当てつけのように、そんな幻想からはもう卒業すると言わんばかりにジェルミは愛に反発する。
『残酷な神が支配する』では、ジェルミは義兄であるイアンに自身を「生みなおす」ことを懇願するシーンがある。イアンによるジェルミの「生みなおし」は、「母」たちを脈々と苦しめてきた母性の呪いから「母」を解放しようとする試みでもある。
『イグアナの娘』で描かれた「身体の同一性」なるものは、もはや存在しないのだ。
ここまで書いてきたように、「私」も「あなた」も、たったひとりしかいない。いくら同じ経験を共有しようと、同じ時間を生きようと、別々の「私」と「あなた」なのだ。「同一性」なる幻想を捨て、かけがえのない「私」と「あなた」として、ともに考えていくこと。差異を認め、尊重すること。それこそが「私」と「あなた」が連帯することのできる道である。