絶対運命黙示録

だいたいツイッターにいます@wenoim

現実からの逃げ場がない


 フィクションに支えられてきた。どんなにつらいときもフィクションのなかに飛び込めば架空の存在たちが私を後押ししてくれた。でも、もうそれも無理かもしれない。

 他人というには愛着が湧きすぎた相手との別れや、自身のどうにもならなさ、世の中にはびこる欺瞞や不正を前にして、どうしても逃げ出したくなったとき、そこにあるのはいつもフィクションだった。

 じぶんなんか大嫌い。平気でうそをつくしわざと悪意をひとにぶつけてみたりする。醜い。だからひととの縁が切れるたびに嬉しくなるじぶんもいるけど、あなたが縁を切った私は私であることをやめられないのに、どうして一緒にいてくれないの、と相手を不当になじるじぶんもいる。

 


 めちゃくちゃ逃げ出したい。

 


 こんなとき、いつもならフィクションに逃げる。助けて、野島聖!!

 


 突然だがここから野島聖の話をしようとおもう。野島聖は『かげきしょうじょ!!』という漫画の登場人物である。私は野島聖が好きで好きで仕方なく、フィクション界においてたぶん一位だとおもうくらい好きだ。彼女のすこしさめたような目も、意地悪を考えてはほんとうにそれを実行してしまう底意地の悪さにプラスされた行動力も、それらすべてをゆるしてしまえるほどにだれよりも舞台に恋していた姿は魅力的のひとことではいいあらわせない。

 だが、野島聖は報われなかった。それは野島聖がわるいのではなくて、周囲のままならなさや、タイミングのわるさが重なってしまったがゆえのことだ。だれも悪くなかった。強いて言うならば彼女をサポートしようとしなかった(できなかったのかもしれない)劇団のおとなたちだ。

 


 私は、いつも野島聖に涙しては前を向いてきた。野島聖、私がんばる、と言いながら生きてきた。しかし、それってほんとうに野島聖をおもってる?たんに自己憐憫をやわらげるための相手として利用してない?

 そうだ。結局はじぶんより「かわいそう」な相手を探して、じぶんはまだマシだ、大丈夫なんだと言い聞かせたかっただけなのだ。ごめんなさい、野島聖。

 


 だから私はフィクションとの距離のとりかたがわからない。さらには現実にいる人間との距離のとりかたもわからない。フィクションとの向き合いかたがわからない。現実との折り合いのつけかたがわからない。わからないことだらけだ。「ただしく」逃げるためにはどうすればいい?

恋人制度廃止のおしらせ


 恋人をつくるのをやめた。

 


 いままで私はずっとふたりひと組にならないと死ぬゲームのなかにいたとおもっている。それは私のたんなるおもい込みかもしれないし、ほんとうにそういう制度のなかに生きていたのかもしれない。というかそうなのだ。だって戸籍上の男女がふたりひと組になって国家に承認されるとお得な制度があるから。べつに異性でなくとも恋人関係にあるひとがいるとそのひとのロマセク性が補強されるから。

 


 私はじぶんのことをクワロマンティックだとおもっている。他者におおきな感情を抱くことはあってもそれが友愛なのか性愛なのかわからない。その感情を形容することばはあれこれ出てくるけれど、はっきり「これ!」と決めることができない。とりとめもなくあらゆることばや感情が浮かんでは消えてゆく。

 


 過去にはいろいろなひとと付き合ったり、告白しては振られたりしてきた。でもそれは私にとってどうしようもなく暴力であり、自傷であった。

 楽しいこともたくさんあった。そのひとと恋人同士でなかったら経験できなかったようなこともまちがいなくあった。だからいままでの恋人たちとの関係を否定するわけではない。恋人でいてくれて、「私たち」でいてくれて、ありがとう。たくさん傷つけたよね、ごめん。

 


 私はひとと破滅しがちな傾向にあるとおもっている。じっさいにそういう経験はおおくある。感情が暴走してひとを傷つけながら生きてきた。じぶんの感情を「一般的」な型にはめることができないのに、はめようとしては失敗して、ときに他者を巻き込んできた。

 


 というわけなので今後はふたりひと組にならないと死ぬゲームからは降りて、恋人制度を廃止しようとおもう。廃止して、ひとりでもはれやかに生きられるよう、すこやかに、ひとを愛そうとおもった。関係性にとらわれることなく、ことばのしがらみにしばられることなく、自由に、ひとを傷つけないように、じぶんのことも傷つけないように、私は、生きる。

ゆるしてくれ〜〜

 なんかもう笑ってやり過ごすしかないことが多くてつかれた!笑う必要なんてないし、むしろ怒ったほうがいいのはわかってるんだけど、どうしても笑いが先にきてしまう。

 


 先週は20年来のともだちに「みおちゃんといると別のひとに会いたくなるんだよね。ほかのひともそうおもってるとおもう」と言われた。その場で私は「あはは」と笑った。でもそのあとしんどくなってそのともだちのLINEをブロックした。すこしして冷静になってブロックを解除すると、「みおちゃんといて楽しかったことなんてほとんどないよ。みんなそうだとおもうよ」と言われてしまった。もうどうしたらいいのかわからない。

 


 そうしてきのうはそのことを共通の友人に相談しようとおもって電話したら「あなたの近況には興味がない」と言われてしまった。そしてここでも私は「あはは、そうだよねえ」と笑うしかなかった。

 


 そのあと今度は幼馴染に相談したら「みおちゃんはしんどいときほかのひとに相談するけど、お話しがあんまり得意じゃないから、しんどくさせちゃうのかも」と言われた。「あはは、そっかー」と言うしかなかった。

 


 きょうはシゴトでの打ち合わせ中にあるイベントに来ないかと誘われ、「ほら、あなたは女性だから。女性がいると女性ならではの視線が入るからいいんだよね〜」と言われた。「あはは、そうですね〜」と笑った。

 


 ずっとにこにこしてたからにこにこしてる以外の顔はどうしたらつくれるのかわからない。私はこのままずっとにこにこしてるんだろうか。

 


 これはしょっちゅうSNSにかじりついては呪詛を垂れ流し、ともだちに愚痴をこぼしてきた私への罰なんでしょうか。私はただ私がしんどいのだということを知っていてほしかっただけなのに。受け止めなくていいし流してもいいからせめて悪意は向けないでくれ〜〜!!いままでほんとうにごめん!!ゆるしてください。

I remember


わたしは思い出す はじめて楽器にさわった12歳の日のことを


わたしは思い出す クラリネットを吹きたかったことを


わたしは思い出す 1年でひとりだけコンクールメンバーに選ばれた日のことを


わたしは思い出す 同級生のだれにもなじめなかったことを


わたしは思い出す 部室から閉め出された日のことを


わたしは思い出す 同級生の目を


わたしは思い出す はじめてともだちができた日のことを


わたしは思い出す 練習のしすぎで舌から血を流した先輩のことを


わたしは思い出す パートリーダーになれなかった日のことを


わたしは思い出す 熱中症で運ばれた日のことを


わたしは思い出す 病院の点滴を


わたしは思い出す 部活に復帰した日のことを


わたしは思い出す さいしょにごめんねがあったことを


わたしは思い出す パートリーダーが搬送された日のことを


わたしは思い出す パートリーダーが戻ってこなかったことを


わたしは思い出す ファーストクラリネットになった日のことを


わたしは思い出す 心配よりもうれしさがまさったことを


わたしは思い出す 西関東大会銀賞を一緒に喜ぶ相手がいなかった日のことを


わたしは思い出す 二度とクラリネットを吹かなかったことを

 


わたしは忘れない すべてを自己責任にしたおとながいたことを


わたしは忘れない 休憩がなくて経血が制服に染み出したことを


わたしは忘れない だれよりも醜かったわたしのことを

『ウーマン・トーキング』感想

 


※ネタバレを含みます。

 


 未来にひらかれたフェミニズム映画、ということばがいちばんしっくりくるような映画だった。

 


 薬物によって眠らされている間に起きる連続レイプ事件。男たちが逮捕された男たちの保釈金を払うために村を出ている間、女たちは話し合う。今後どうするべきか。残ってなにもしないか、男と闘うか、出て行くか。選択肢は3つある。投票の結果、闘うか出ていくかで話し合いが開かれることになる。

 ただ、ここにはひとりの男性が記録係として参加する。彼は昔村を追い出された家族の息子であり、大学を出、いまは村で教師をしている。彼は女性たちの話し合いの場で決して妨害するようなことも、女性を見下すこともない。なにもかもを「わきまえて」いる。だから「害のない」男性としてある種の信頼を得ている。

 議論は白熱し、ときに堂々めぐりになり、混線したりしながらも進んでいく。最終的な決断をくだし、村を出ていくとなったとき、だれを連れて行くのか、も重要なポイントとして話し合われる。

 私はここで強烈な違和感をおぼえた。「教育」を受けていない男性はすべからく加害者になりうるのか?加害者はすべて男性なのか?女性間で性暴力は起きないのか?トランス男性は同行するが、登場しないトランス女性はどうなるのか?そもそも被害を受けたのはトランス男性とシス女性だけなのか?シス男性が被害に遭ったことはないのか?などなど。

「女性による、女性のためのあたらしいコミュニティ」といえば安全で、安心できるのかもしれない。でも、女性間でも性暴力は起こりうるという可能性を排除しすぎていないか?「教育」がほんとうに私/たちを救うのならば、どうして大学内で性暴力事件が後を絶たないのか?

 


 なにが正解なのか、わからない。ここに描かれているのは一種のユートピアだ。これが正解だなんて思わない。ただ、この映画は、私/たちに未来への可能性をひらいてくれたのだとおもう。

中心からはずれた場所で生きる


 駅にいくつかのビルが併設されていて、平日の昼間でもすこしはにぎわいをみせている。だが、一歩出ると、途端に人通りが少なくなり、車の往来が増える。しばらく歩くとシャッターストリートとなった商店街、学校、住宅街が見えてくる。よくある地方都市の光景だ。そこからさらに車で30分ほど走らせたところに、私の家はある。最寄りの駅までは車で15分、市でいちばん栄えている駅までは車で30分。2年後に小学校、中学校がそれぞれ統廃合を控えていて、私の母校はなくなる。見渡す限りのネギ畑と、ときどき牛舎。ぽつぽつと点在する家々。

 それでも、電車に乗ればかんたんに「中心」に行けてしまう。1時間ちょっとで、川をひとつ越えるだけで。

 


「中心」にはなんでもある。渋谷や原宿といったわかりやすい流行の発信地から、皇居や国会議事堂という国全体にかかわる権力の中枢まで。

 


 だから「中心」に飢えて飢えて仕方のないひとのことがわからない。「中心」はいつでもすぐそばにあるから。それでも、私は「中心」の人間ではない、とおもう。かなしいほどにネギの匂いと牛の鳴き声に覆われたところが私の故郷であり、棲家なのだから。

 


 小学校から高校までは地元の公立校に通った。大学は関西の私立を選び、「中心」の大学はほとんど受けなかった。親の出た大学に行ってみたいというのが主な理由だったが、「中心」に通うのがこわかったのかもしれない。

「中心」ではなにもかもがあたらしくて、ださい、垢抜けない自分を出すのがこわかった、だから地方の大学を選んだのかもしれないな、といまになってときどきおもう。

 大学院も「中心」とは反対の隣の県だった。

 就職が決まり、はじめて「中心」に通うことになった。転職をいくつか繰り返したが、それでも勤務地はずっと「中心」だった。

 


「中心」のひとたちはよく土地の話をする、というのはこれまでの短い経験で得た雑感である。どこどこに行くとあれがあるとか、あそこは土地が高いとか。あらかじめ決められたコードがあるように、「中心」では場所によって服が変わるし、当たり障りのない会話といえば土地の話だったりする。

 


 ことしの5月に入ってまた転職した。今度は「中心」ではなく、地元の、小さな出版社である。私はフリーランスというかたちで業務委託され、文章の校正などをしている。「中心」に通わなくても、なんなら家から出なくてもよいことになった。

 これで「中心」とは無縁になったかというとそうでもない。イベントごとはいつも「中心」で開催されるし、お芝居も、展覧会も、開かれるのはいつも「中心」だ。おおきな文化にふれるには「中心」に行くしかない。

 


「中心」に行くと、いつも地元との格差についてのおどろきと、そこに比較的簡単にアクセスできるという優越感がないまぜになる。「中心」はそれだけで特権である。

 


「中心」からはずれた場所で生きてゆくのだということ、それでも「中心」には近いのだということ、じぶんのなかにアンビバレントさを抱えたまま、私は生きる。

あつさとだるさのなかで、すがるように文を浴びる


 あつい、だるい、きのうのつかれがなかなかとれない。横になってスマホをスクロールし、エゴサーチがやめられない。

 


 文学フリマ東京36に参加してきた。私は「果ての向こう側通信」というサークルを運営していて、出店することにもなっていた。評論と研究の、ジェンダー・LGBTQというカテゴリにいた。

 文学フリマでは、それはそれはたくさんのひとに会った。1万人を超える参加者がいたというのだから当たり前だ。

 


 20年来の友人が売り子として来てくれたのだが、私が売るものについて「こんなもののどこがいいのかわからない」とずっと言っていた。彼女とは一生わかりあえないとおもっているが、「お互いの欠点から目を逸らしあって生きていこう」と誓った仲である。

 


 イルミナさんが、事前にストリップ関連のものを出しているお店リストを作ってくださっていたおかげで、『宝塚歌劇とストリップ 「まなざし」のフロンティア』というZINEはすぐに売り切れた。ストリップ愛好家たちの熱意はすごい。

 


 詩がよくわからなくて、なにがどう書けたらよいものなのかわからないが、詩と、すこしの文章を書いて封筒に入れて売った。なん人かの方が買ってくださって、だれかに届いたらいいとおもっていたささやかな願いは叶った。

 


「果ての向こう側通信さんの出すものが好きなんです」と言ってくださった方もいた。ただただ嬉しかった。ツイッターでは感想もいただいた。

 


 差し入れもほんとうに嬉しかった。憧れの研究者の方、お世話になった方々からのご厚意がありがたい。お菓子も、展覧会のチケットも、写真に撮ってにやにやしている。

 


 打ち上げでは友人とインターコンチネンタル東京ベイのアフタヌーンティーに行った。年に一度もしないような贅沢である。

 


 家に着いたのは夜の10時半とかで、11時には寝たがすぐに起きてしまい、その後なかなか寝つけなかった。

 


 きょうはやけにあつく、だるくかんじる。きっときのうの興奮とつかれのせい。きのう買ったものたちを眺める。

 


①夏の木陰/La Nave『クィア映画読本volume.1』

好きな映画の評がいくつも載っていたので買った。書き手の「私」が強く出ていて、このひとはこういう感想を持ったのか!と、じぶんとはすこしちがう感想が新鮮で嬉しい。観ていない映画もあって、観たいとおもった。

 


② 森野豆子『「自閉症スペクトラム症の女の子が出会う世界-幼年期から老年期まで」サラ・ヘンドリックスとの出会い』

森野さんの文章が好きだ。冷静だけれどもその一方で感情がそっとこちらを見ているから。じぶんにあたらしく貼られたラベルについて細かく調べ、分析し、生存のための道をさぐる。

森野さんのしおりも買った。「Self-pertnerd」と刺繍されている。

 


③眞鍋せいら『いつかピアスを落とした湖畔』

せいらさんの文章のリズム、ことばの選び方が心地よい。愛だ〜〜とおもった。せいらさんの文について感想を書くのはむずかしい。なにかをこわしてしまいそうで、こわい。でも、私はここにある短歌たちに生かされているとかんじる。

 


④ 夏のカノープス『夏のカノープスvol.2』

フェミニズム文芸誌」の看板通り!!個人的なことは政治的なことであり、個人がなによりたいせつにされていて、わくわくする。

 


⑤utane『404』

「おまもり」がテーマになっていて、私を守ってくれる、確固たる思想が土台にある、選び抜かれたことばたちがこんなにもあるなんて、と感動した。きっとなん回もめくる。

 


⑥イルミナ編集部『イルミナ』第5号

新人の踊り子さんたちのインタビューやエッセイがかなりいい刺激になった。ストリップ、やっぱり好きだなとおもった。こうやって、踊り子さんや観客の方々のさまざまなかんがえにふれられて、進化/深化してゆくカルチャーがあるのは、よい。

 


栗田隆子『呻きから始まる』

栗田隆子さんにはさいたま市でおこなわれた「はたらくこと」のワークショップでお世話になった。そのまえから『ぼそぼそ声のフェミニズム』は好きで読んでいた。呻き、ことばになるまえのもの、から始まる、栗田さんの歩みの数々をきちんと読みたいとおもった。ぜんぶは読みきれていないので、すこしずつ、ていねいに。

 


⑧文乃『from the hell magazine』vol.1.2

インパクトのあるZINEだなとおもっていた。内容もかなり充実していて、装幀も凝っていて、どこまでも「じぶんとはなにか」を追求したものだった。ほんとうにヘルだよね、こんな世界、でも、生き延びようね、ぶち壊そうね、私たちはここにいるのだから。

文乃さんのqueerブレスレットも買った。たいせつに身につけたい。