今後ぜったいに重ならない人生を歩むであろう(たとえば電車で乗り合わせた)ひとと本の趣味が一緒だったり、むかし母がはじめて私に「似合う」ものを教えてくれたお店が閉店したり、生理周期を把握するためのアプリにその日の体調を打ち込んだり、そういうことで私の日常は構成されているわけだが、そのひとつひとつにいちいち反応してめちゃくちゃになってしまう。それでぜんぶがどうでもいいみたいなふりをしてぜんぶどうでもよくないから傷つく。じぶんでじぶんを傷つける。
フリック入力ができなくてiPhoneでガラケーみたいな打ちかたをしてしまうことも、ひとの善意にたいしてうまく対応できなくて「ありがとう」のあとに余白がうまれてしまうことも、すごくすごく気にしてる。ほんとうは気にしたほうがいいことを気にしないでいること、気にしなくてもいいことを気にしていることはたぶん間違っているんだろうけど、それをただせるほどの柔軟性も、じぶんを見つめなおせるだけの胆力もない。
幼馴染と行ったプールの写真を見せたらきっとまた痩せろと言われるのだろうなとだいたいの予測がついてしまうことや、首に傷跡がのこっていることで髪を切ることを禁止されているけれど髪を切りたくてほんとうに切ったら怒られるのだろうなということに涙が出る。私の身体にはだれもがかんたんに介入できる。身体へのアクセスだけは良好。
じぶんの他者にたいする圧倒的な支配欲と独占欲を巨大感情のひとことでおわらせてしまうことに違和感がある。他者への執着をもうすこしだけべつのところに向けられたらいいのに、とおもう。
まとまらないことをつらつら書きつづけるだけの機械になってしまったみたいで苦しい。もうちょっとはおもしろみがほしかった。