絶対運命黙示録

だいたいツイッターにいます@wenoim

加害者になるのがこわい、と言うことがこわい


 映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を観てきた。主人公の七森は恋愛を楽しめなくて、傷つくのがいやで、なにより自分がひとを傷つけることをおそれていた。だからぬいぐるみに向かって話す。『ぬいしゃべ』に出てくるひとたちもそうやってぬいぐるみに話しかけるひとがおおくて、それぞれに傷つきを抱えている。

 


 私はぬいぐるみをたくさん持っているけれど、話しかけたりはしない。心のなかでちょっとよりどころにすることはあっても、話しかけない。それは『ぬいしゃべ』の白城さんがぬいぐるみに話しかけないのとはすこしちがうとおもっている。私がぬいぐるみに話しかけないのは、生身の人間に話しかけるほうがはるかにすっきりするということを知っているからだ。だが、それは同時に加害性をもっている。話しかけられた相手が傷つくかもなんてことをかんがえていないのだから。だからたぶん私はひとを傷つけることですっきりするようなニンゲンなのだろう。

 


 白城さんは「ぬいサー」を避難場所のようにしながら、セクハラの温床みたいなサークルにも属している。だって「社会」に出たらそんなのが「ふつう」にまかり通っているのだから。いまから慣れておかなければ、と言う白城さんがこわかった。

 


 私ははたらくのを半年以上つづけられたためしがない。たいていはすぐに辞めるか休職するかしてしまう。「社会」の「ふつう」が私の「ふつう」とはぜんぜんちがっていることにショックを受けてしまう。そうしてじぶんを「社会」の「ふつう」に合うように変形させる作業がたまらなく苦痛だ。じぶんがじぶんでなくなるような、傷ついたことすらなかったことになってしまうような、そんなことができない。

 


 映画は、たえず観る者の立場に向かって問いかけてくる。「あなたはどうなの?」と。だから私にとって映画を観ることはじぶんを忘れるための2時間にすることではなくて、ひたすらじぶんがじぶんであることを確かめるための2時間にすることだ。七森や麦戸ちゃんに共感しながら、「でもお前はひとを傷つけるだろう」とじぶんを責める。

 


 ひとを傷つけるかもしれないことは、こわい。加害者になることが、いちばんこわい。でも私は過去にたくさんのひとを傷つけてしまったし、いまもこうして傷つけているのかもしれない。「ごめんなさい」を言わなくてはならないひとがたくさんいる。でもひとによってはそれすらしんどいかもしれない。だからしゃべれない。沈黙。でも、それは私があなたたちを傷つけてしまったことを消すことにもなってしまうかもしれない。傷つけて、ごめんなさい。いまはただそれしか言えないけれど、もし私に傷つけられたというひとがいたら匿名でもいいので教えてほしい。傲慢かもしれないし、保身ゆえのおこないかもしれないけれど、個別に対応する。