絶対運命黙示録

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物語をいかにして得るか

 


 私はもろもろの事情により以前のようにばりばり本が読めない。活字を追うのがつらい。

 それでも本が好きだし、文章としての物語が必要だなとおもう。

 小川洋子は『物語の役割』のなかで以下のように述べている。

「非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っている(中略)誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけている」(小川洋子『物語の役割』筑摩書房、2007年、22頁)

私はそれを本のなかに、文章のなかに見いだしている。

 


 その一方で、そうじゃないひともいる、ということを知っている。

 たとえば、ある友人は本をあまり読まない。たまにおすすめの本教えて、と言われていくつかこたえると、それらを図書館で借りて読んだりするが、そういうのは年に一回あるかないかくらいだ。本人も本はほとんど読まないと言っていた。

「じゃあどうやって物語を得ているの」

とはきいたことがある。どうやって現実を受け止めているの、と。

 すると友人はこたえた。

「絵をみたり音楽をきいたりするよ」

そうか、なるほどと膝を打った。友人は、私とはちがう方法で、物語を得ているのだ。

 


 物語は、なくてはならない、とおもっている。だが、それは必ずしも本を読むことや文章を書くこととイコールではない。

 本を読めるということは、特権のひとつである。なぜなら、視覚に障害があるケースや、その文章が書かれている言語を理解できないケース、私のように活字を追うのがつらいケースなどがかんがえられるからだ。

 ひとは、それぞれに物語を持つ。その物語を共有させるかどうかはそのひとの自由であるし、手段は多様にある。私は友人と対話ができていると感じるし、対話の方法もさまざまだ。たとえ対話ができなかったとしても、落ち度はどちらにもない。本が読めているからといってそのひとがえらいとかすごいとか自分と同じ地平にいるとかそんなことはないのだ。同じ土俵などははなから存在しないのだ。

 


 小川洋子は先ほどの本のなかで以下のようにも述べている。

「作家は特別な才能があるのではなく、誰もが日々日常生活の中で作り出している物語を、意識的に言葉で表現しているだけのことだ」(前掲書、22頁)