「あー」
とか
「うー」
とか言いながら大の字になっている。
高島鈴の『布団の中から蜂起せよ』を読んだ。
勝てないな、とおもった。勝ち負けの世界ではないことは重々承知であるが、高島鈴は高島鈴の武器(書くこと、ことば)を持っていて、私はそれをほとんど持たないようなものだと突きつけられた。いくら他人がエンパワメントしようとことばを向けてくれようが、のこしてくれようが、それは私を武装させるわけではないのではないか、とおもったりもしている。
高島鈴は
「やっぱり言葉なんだよなあと思う。結局何か語らないことには伝わらない」(44頁)
という。
私はこうして、ブログというかたちにして、ことばを、語っているが、それが「正しい」やりかただとはおもわない。政治的には正しいのだろうが、それが、いかに奪われてきたか、それを奪われたひとが、沈黙する以外の術を知らないことを知っている。そのひとが、高島鈴の文章にアクセスできる可能性だって低いし、語ることは、限られた人間にしか与えられない。
だから私がここで言いたいのは、ことばにするまでの過程がいかに特権的であるかということと、ことばにできなかったひとたちとの断絶への絶望ということである。
ところで、私は公立の中学校を出ている。荒れていて、その荒れている原因はおもに「荒れた」生徒たちの直面している貧困問題にあって、大人たちとの対話の不可能性にあって、彼ら/彼女ら/彼人らがことばを得られなかったことにあるとおもっている。私はかろうじていじめに遭うこともなかったが、同時に「わかりあえなさ」、「ことばの通じなさ」に直面し、絶望した。そのひとたちは今、結婚したりしなかったりしながら生きていて、10代のうちから子どもを育てている。そして、自分たち自身を苦しめる構造のなかに自身を置いて、社会で起きていることをテレビのニュースですら理解できていない。
そう考えたときに、「やっぱり言葉なんだよなあ」なんて、私は言えない。
中学生のときの私は彼ら/彼女ら/彼人らのことばを理解しようとしなかったし、見下してすらいた。最低だなとおもう。
死にたい。死なせてくれ。もう私は死んだんだーー!!アーメン。
アーメンソーメン坦々麺。
所詮生きるとか死ぬとかそういうたいせつなことを軽々しく口に出せてしまうような浅薄な人間なのだ、私は。
最終的にはおのおのの世界で戦いをやっていくしかないし、そのための武器だってことばに限ったものではない。それなのにことばに固執して、嫉妬して、勝手に傷ついて、一方的に死にたがっている。
10年後にこの文章を読んで
「あのころは必死だったなあ」
だなんて笑っていられるだろうか。自信はない。