絶対運命黙示録

だいたいツイッターにいます@wenoim

東京なんてただの場所だとおもってた

 


 電車で1本、1時間かそこらで着いてしまう場所、東京。東京はちょっととくべつなとき(たとえばお芝居や展覧会を観に行くとき)に行く場所で、私の日常からはすこし切り離されていたけれどある意味では日常で、そう遠くないただの都会だとおもっていた。

 だから大学受験のときも東京の大学なんてほとんど受けなかった。東京の大学なら実家から通えるし、じっさいに同級生たちはみんなそうするみたいだったし、それが「ふつう」で「あたりまえのこと」だった。私は親が通っていた関西の大学に入りたくて、そこしか目に入っていなかった。

 親の通っていた大学は落ちてしまったが、関西のべつの大学に入ったとき、「どうして東京の大学に行かなかったの?」、「東京の大学なら実家から通えるんでしょ?」といった質問が浴びせられることがしばしばあった。そのときは、えー、だって一人暮らしできるし関西のほうが魅力的じゃん、とおもっていた。そういう質問をしてくるひとたちの、東京にたいするまなざしを知らなかった。

 


 大学進学をきっかけに、ガラケーiPhoneになり、ツイッターをはじめた。セクマイサークルの先輩にはなんらかのアプローチからのフェミニズムを専門にしているひとが多くて、よくさまざまなフェミニストたちのツイートがリツイートされてタイムラインに流れてきた。そのなかに、雨宮まみがいた。雨宮まみフェミニストだったのかどうかを私は知らない。けれど、私たちをエンパワメントしてくれるツイートの数々にすっかりとりこになり、『女子をこじらせて』を買うに至った。

 そこには、雨宮まみの、東京というものへのあこがれ、渇望がありありとうつしだされていた。そうして、私は、東京がただの都会、場所ではないことを知った。

 


『女子をこじらせて』の雨宮まみは、当時の私とリンクするところがすくなからずあって、いまでも読み返すたびに大学に入りたてでぱんぱんにふくらみ、もてあましていた自意識をおもいおこさせる。

 18とか19だったときの私は、女子校という問答無用で全員が女子とされる空間から出て、世の中には女子ではないひとがいることを知り、同級生たちが垢抜けて、ばんばん恋愛していくのを見て、「かわいくなること」、「垢抜けること」に終始していた。髪の巻き方がわからずカーラーを巻いて寝たことも、形の正解がわからず毛がなくなるまで眉を剃ってしまったこともある。服の系統も一貫せず(これはいまもだが)、とにかくかわいいとおもわれるために必死になってショッピングモールを歩きまわった。なんとなく森ガールであることがよいようなきがして、アースやサマンサモスモスの服をメインに買っていた。森ガールの時代はもう終わっていた。

 大学での私は垢抜けず、性別を問わずまったくモテなかった。それどころか強制的異性愛者生産装置のようなサークル(前述のセクマイサークルとはべつのところ)で、男子を立てること、おだてること、「非モテ」として「身の丈」を「わきまえる」ことを叩きこまれた。

 


 雨宮まみの影響で東京は神戸や梅田や難波とはちがう、背伸びをしないと行けないようなところ、というイメージが私のなかに入ってきた。そうするとなんだかいままでの「ちょっととくべつ」が「とんでもなくとくべつ」なものになった。急に東京というものを意識するようになった。

 通っていた大学とはべつの大学の院を受け、進学とともに実家に戻った。東京はあいかわらずそれなりに近いところにあったけれど、「おしゃれをすること」や「身の丈にあわせること」を知ってしまったからにはべつの場所のように感じる。ついでにお財布的にも東京での出費が痛くなってきもしていた。そのとき読んでいた雨宮まみ『東京を生きる』でも、三浦しをん『あの家に暮らす四人の女』でも、東京はやっぱりとくべつなところとして描かれていた。

 


 さいきん、本が読める。本が読めそうだとわかってすぐに読んだのは山内マリコの『ここは退屈迎えに来て』と『あのこは貴族』、雨宮まみの『東京を生きる』だった。山内マリコ雨宮まみも東京と地方都市を決定的にちがうものとして書いている。とくに『あのこは貴族』では主人公華子が、いわゆる「幼稚舎からの慶應ボーイ」ではない男性に引いてしまう場面が描かれていて、私的にはかなりショッキングだった。『あの子は貴族』は「階層のちがい」を徹底して描きだす。そして、私にこんな問いを投げかける。「あなたはどこの階層なの?」

 そんなの正直わからない。金銭的には恵まれて育ってきたけれど、生まれも育ちも東京だったひとたちとはなにか決定的な差があるように感じる。

 


 転職が決まり、4月から東京で一人暮らしをすることになった。はたして私は東京での暮らしに慣れることができるだろうか。東京をただの場所だとおもえなくなってしまったいま、それはとてもこわいことにおもえてしまう。東京での暮らしによって私はまた変わるのだろうか。