絶対運命黙示録

だいたいツイッターにいます@wenoim

しんどさから逃げられない人へ

 


 ロシアがウクライナに攻撃し、「戦争」が始まってしまった。「戦争」とはある日突然始まるのではなくて、さまざまなことが長い時間をかけて積もり積もってある日ぷつんと糸が切れたように「戦争」と名のつくものとして認識されるのだとおもう。

 


 テレビではずっとロシアとウクライナの情勢について流れていて、私は3.11のときを思い出していた。私は当時被災地出身の母のメンタルケアにまわり、テレビをずっと流して安否不明の祖母の情報を探していた。被災地の様子を見つづけるのは当時中学2年生だった私にとってかなりしんどかったのにしんどいと言えずに今に至る。あのときのしんどさはいまも残っていて、ときどきどうしようもない渦になって押し寄せてくる。こんかい、さまざまな事情があったりして情報を常に入れつづけなければいけないひともいるとおもう。だが、しんどいひとがちゃんとしんどいと言えるといい。苦しみをひとりで抱えつづけないでいてほしい。

 


 3.11についてだが、それから数ヶ月後の中学3年生のとき、作文を書いた。校内でそれなりに高く評価され、地区の文集にも載った。「言葉を失ったあの日」というタイトルで、震災についてぽつぽつと書いている。以下はその全文である。

 


 「……。」

 想像を絶するその光景に、皆が言葉を失った。

--三月十一日。マグニチュード九・〇の巨大地震が東北地方を襲った。家々は崩れ、それに拍車をかけるように大津波がおし寄せ、すべての物をのみ込んだ。町は消え、がれきの山、山、山……。


 私の母は宮城出身だ。つまり、私の親族の半分ほどは宮城県に住んでいる。今回の津波では、母の従兄弟が亡くなり、大半の親戚が住む家を失った。私の祖母もその一人だ。地震発生から五日間、私達家族は一人暮らしの祖母の消息を一切つかめなかった。震災後、私の家の居間では一日中テレビがついており、父と母はテレビの前に座り続けた。少しでも祖母の姿が写らないかと、テレビ画面をくいいるように見つめていた。母はもう軽いうつ状態になりかけていた。

 六日目に入り、仙台に住む母の友人が、途中で車を乗り捨ててまで祖母の住む町の避難所へ、自分の両親と、私の祖母を探しに行ってくれた。幸い祖母は、津波が来る前に逃げていたらしく、避難所の隅でうずくまっていたという。祖母がいた避難所は、町立の体育館で、当時二千人以上の人が避難していたそうだ。皆、横になって眠るスペースがなく、座ったままで寝ていた。はじめの二日間は、一日一杯の薄いスープだけだったと聞いた。その話を聞いた両親は、祖母を迎えに行く準備を始めた。

 八日目、父と母は何とかガソリンを手に入れ、祖母を迎えに宮城までいった。自分一人が避難所を去ることを祖母はためらった。しかし、友人たちが自分のことのように喜んでくれ、埼玉に行く祖母の背中を押してくれたそうだ。

 宮城から避難してきた祖母を、父方の祖母は快く迎え入れてくれた。毎日、二人で庭の草花の手入れをして過ごしている。祖母は、一見、今までと変わりないように見えた。たまに、表情がなくなることが気にかかり、

「大丈夫?」

と、私が聞くと

津波で今まで暮らしていた家や、仲良くしていた近所の人が流されていくのに、自分では何もできなくて……。悲しいとか嬉しいとか、自分の感情がなくなってしまったような気がする。」

と、ぽつりと語った。あまりにも辛い目にあったとき人は泣くこともできなくなり、感情も凍りついてしまうのか。

 四月二日、周りの状況が落ち着いてきたため、私は両親、祖母と連れ立ち、祖母が住んでいた宮城県女川町へ向かった。部活動の皆にそのことを話すと、先生をはじめ多くの人が被災地の方々に、と、それぞれに救援物資を持ってきてくれた。子どもの玩具や衣類、ティッシュペーパー、お菓子。粉ミルクを持ってきてくれた人もいた。

 「……。」私達は絶句した。

いざ被災地へ着くと、テレビで見た以上の凄まじい光景が広がっていた。私達四人は、誰も何も言わなかった。いや何も言えなかったのだ。何メートルにも積み上げられたがれきの山。山の裾の近くに横転した大きな船やディーゼルカー。祖母の家は海から五、六百メートル離れたところにあったが、土台すら残っていなかった。辺り一面が廃墟と化していた。祖母が呆然としている気持ちが少しわかったような気がした。惨状は私達の感情を麻痺させた。祖母が津波から逃れたことだけが、ただただありがたいと思った。

 祖母のいた避難所を訪ねると、まだ千人以上がそこで生活していた。祖母の友人は、少ない配給の中から、少しでも私達をもてなそうと、お茶やジュースを出してくれた。過酷な状況なのに、皆、気丈に振る舞っていた。ひとの"真の強さ"や"優しさ"にふれた気がした。

 中学校の皆からの救援物資を町の職員の方に届けると、

「埼玉から持ってきてくれてありがとう。」

と、何度もお礼を言われた。避難所を離れるとき、祖母は友人と泣きながら別れた。

「元気で。」「体に気をつけて。」

祖母は、この日やっと少し感情が戻ってきたのだ。

 私はあの日以来、自分にできることはないかと考え続けている。それは、日本中の人の気持ちと同じだと思う。今はまず、祖母の傍らでそっと寄り添っていけたら……と思う。できることを探しながら、祖母達と一緒に歩んでいきたい。

 


 今よりちゃんとしてるなというかこのときもしんどかったのにそれを作文にさせられて消費されて……という経験はなかなかきつかったようにおもう。ちなみに文集の中でも出来がよかったらしく最後に【学習の手引き】というものがつけられている。以下はその文。

 


 誰もが記憶にあるあの日。特に身近に降りかかった突然の出来事。■■さんは、見た・感じた・経験したことを、そのまま冷静に見つめ、自分の言葉で捉えています。そして、一文が短い文章構成は、緊迫した臨場感を生み出し、祖母への自分の思いを効果的に表現しています。

 


 だれも私がしんどかったことなんてなかったようにふるまう。作文だってこういうかたちにしたくなかったしこんな評価のされかたしたくなかった。ただただしんどかったことを受け止めてほしかっただけなのだ。