絶対運命黙示録

だいたいツイッターにいます@wenoim

異性間の恋愛におけるクィアネス覚書①


 私はパンセクシュアルでシスジェンダーの女性である。以前はレズビアンを名乗っていた。だが、初恋が男性であったことや、レズビアンと強く言ってしまうほど同性への恋愛指向があるわけではないと気づき、とりあえずパンセクシュアル、ということにしている。

 


 シスジェンダーのパンセクシュアル、という自認について考えたところ、シスジェンダーの異性と恋愛したときにそのクィア性が不可視化されるのでは?ということに思い至った。これは前々からうっすらとわかっていたことなのだが、自分のことになった途端一気に押し寄せて来た。それは今まである意味で無自覚な特権階級でいられた、ということの証左でもある。

 


 シスジェンダーの異性間の恋愛はいくらクィア性をはらんでいたとしてもパワーカップルのように見えてしまう。それは異性愛が前提とされている現状では逃れられないことである。また、異性間の恋愛においては婚姻制度以外の特権も享受できるという点に関しては過敏にならざるを得ない。恋愛=婚姻ではないし恋愛感情抜きでも婚姻はできるが、異性間の関係性に限られてしまっている。

 


 では、どうしたらいいのだろうか。そういう現実に直面したとき、私は物語が必要なのだと考える。バイセクシュアル、ポリセクシュアル、パンセクシュアルナドナドといった同性(?)とも異性とも恋愛する可能性のあるセクシュアリティのひとびとに開かれた物語が。

 


 小川洋子は物語の役割について次のように述べる。

 


 たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。

 あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分のなかに積み重ねていく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです。(※)

 


 私/たちには物語がなくてはならない。

 


 バイ/ポリ/パンセクシュアルのひとびとにとって開かれたといえる物語はあるだろうか。たとえば、『ののはな通信』や『夢の端々』、『青い花』、『燃ゆる女の肖像』といった作品は同性との恋愛を経たあとの婚姻によってもその経験が消えないといった点で意義深い。その一方で異性同士の関係が道具として使われることに対してもっと掘り下げて語られるべきである。そのようになってからやっとこれらの物語は私/たちのものになったといえるのではないだろうか。

 


 だが、それだけではクィア性を「みせる」ことにはならない。クローバーの指輪も28ページもそれを「知っている」者にしか通じない。しかしそれを知ることのできるのは本人たちのみである。

 


 クィアネスの演出についてより深く研究する必要がある。

 


https://www.chikumashobo.co.jp/special/monogatari/ (2021年9月28日閲覧)