絶対運命黙示録

だいたいツイッターにいます@wenoim

「東京」の人間にはなれない

 

 見渡す限りネギ畑。ときどきビニールハウスや牧場があって牛の鳴き声がきこえてくる。それがわたしの住んでいる場所だ。

 

 だが、そこから1時間かそこらで、1本の電車で川を渡ってしまえば「東京」がある。高いビルが乱立していて人ごみがあり、「東京」はいつも騒がしい。静かな場所もあるが畑はない。牛の鳴き声もきこえてこない。

 

 ときどき、どうしてもぜいたくをしたくなる。いいホテルのアフタヌーンティーや紅茶1杯が1000円以上するようなカフェでのおしゃべり。それらはどれも「東京」にしかない。とおもっている。そしてそういうぜいたくは身の丈に合わないともおもっている。「身の丈」がなんなのかはわからないけれど。

 

 「東京」に行くときはいつもそこに馴染めるかを過剰に気にしてしまう。おもっている以上に「東京」にはいろんな格好のひとがいる。しかし、そのひとたちはわたしとはちがう「東京」のひとだからその景色に馴染んでいるんじゃないかとおもってしまう。

 

 今日わたしは地元のともだちと表参道のおしゃれなカフェでお茶をした。デザートとドリンクだけで2人合わせて5千円以上した。カフェにはやはりいろんなひとがいて楽しそうにおしゃべりをしていた。わたしたちもあれこれと話していたが「ああはなれないな」とおもってしまった。別の世界のひとのように感じてしまう。

 

 カフェを出てからわたしたちは地元にもあるようなファストフード店に駆け込んだ。甘いものを食べたあとだからというのもあるがあのカフェにずっといるのは居心地が悪かった。安心感のようなものを求めていたのかもしれない。

 

 そこまでして一体なにがほしいのだろうか。「身の丈」に合わないようなことをして、無理をして、すこしでも「いいところ」へ行こうとする。そして馴染めなさを感じて出てきてしまう。

 

 「東京」はいつもそばにある。小さなころから観たいお芝居や展覧会があると好きなだけ連れて行ってもらえた。それなのに「東京」はいつも眩しくて、遠い。どれだけ通おうと、そこに住もうと「東京」の人間にはなれない気がする。

 

 地元を出て上京し、「東京」のひとになった同級生を何人も知っている。「東京」のひととは決してそこで生まれ育った人間のことではないのだ。

 

 野心が足りないのではないかとおもう。「東京」を鉤括弧抜きで、じぶんのものとしてしまえるだけの野心が。

 

 きっとわたしは足が床につかないようなバーに遅い時間に入るようになっても、そのあとはタクシーに乗ってベタついた床のラーメン屋に入るのだろう。