絶対運命黙示録

だいたいツイッターにいます@wenoim

「自分ひとりの部屋」を求めて

 


 松濤から神泉のあいだ。美術館から駅に向かう途中。閑静な街並みが広がる。「ここら辺だとちょっと高いねえ」なんて言いながら恋人とランチをする。ランチが終われば神南のほうへ向かい服屋を見て回る。それに疲れたら紅茶専門店でお茶。なんてことのないミドルクラスの休日。広告代理店で役員まで務めた親の庇護のもと、私はほとんどはたらかずに、お金の心配もせずに、生きている。そしてこうして書き出してはなんてのんきなのだろうとうんざりする。親がいなくなればこの暮らしも維持できなくなるというのに。

 


 私たちがデートをしたまちでは今も生活の「場」を奪われようとしている人たちがいる。じっさいに、宮下公園は2020年に野宿者たちを排除してあたらしく「ミヤシタパーク」となった。今は美竹公園がターゲットとなっている。今、こうしてブログを書いているあいだも、美竹公園に暮らす人たちのライフラインは断たれ、ただ「出ていけ」と言われている。

 


 私になにができるというのだろう。ただ、このままいけば私もきっと彼ら、彼女ら、彼人らと同じ運命を辿ることになるだろう(だれだってその可能性を持っているのだ)。そして資本主義のもとにすり潰されてしまう。抗いたい。

 


 ヴァージニア・ウルフは『自分ひとりの部屋』で、女性が小説を書くには、少しのお金と、鍵のついた自分ひとりの部屋が必要だと言った。確かにそうなのだろう。資本と、物理的な場。だが、「自分ひとりの部屋」とは、資本がなくても、じっさいに鍵のついた部屋がなくても、つくることは可能だとかんがえる。そうだとおもいたい。資本主義に組み込まれることなしに、私は、「自分ひとりの部屋」をつくりたい。

 


 資本主義に抗い、そのあみ目をくぐりぬけて見つける「場」。この「場」をこそ私は守りたいし、宮下公園、美竹公園に代表されるようなジェントリフィケーションにNOを唱えていきたい。資本主義は実生活の場どころか人の心の自由までも奪い、より権力を持った人々にのみ恩恵をもたらすのだから。